平成アーカイブス  <研修会の記録>

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【年間テーマ:心の扉を開く】
平成15年度

父親が本気で叱る

『心の扉を開く』1−2

7月29日勉強会2 [講師:西光義敞先生]

 「断ち切る」という父親の機能

―― 理想の家族というか人間関係について、先生はどう思われますか?

 理想ですか。それはやはり、メンバーが心を開いて、それぞれの立場で生き生きとその人らしく生きていて、それを周りの人が妨げないで、よく理解しあってネットワークを作っていく。そういうのが一番良いですね。

―― 僧侶というのは、定期的に色々な家にうかがいますから、僧侶がカウンセリングの能力を身につけていれば、世の中大分変ってくると思うんですよ。

 そう思います。問題は、僧侶がカウンセリング的態度を身に付けるにはどうしたらいいのか、ということです。

―― 得度の時に習うとか。カウンセリングを必修科目にするとか。

 僕も、そういう風に言い通してきてるんです。ビハーラも専門委員10年以上続けてきて、実際に病院から老人ホームに行くでしょ。生身の人に触れるわけです。その時に手も足も出ないのは、カウンセリング的態度が身についてない人。もう一つは、介護看護の基礎知識がない。だから「次から次に講師を変えて講義もいいけど、もっと10時間から15時間の体験学習してほしい」という声はあがっているんですよ。しかし中々変らない。
 結局私は、「そうなればいいのになー」という執念で生きてきたような男なんです。いやホンマ。こうした話もするし、『真宗カウンセリング研究会』というワークショップやっとるし。皆さんもこうした場に顔を出せたらぜひご参加ください。

―― 先ほどの問題でちょっと気がついたんですが、引きこもりのある家族というのは、父親の影がない。何となく。そこらへんが、もしかしたら問題なのかなと思うんです。実際に父親が居ない所もありますが、まずは存在感が無い。居ても居なくても同じというか、空気みたいというか、排除されている。
 今まさに「父親の存在とは」ということが社会でも問われていますが、母親は割と自ずと坐る場所があるんですよね。でも家庭の中で、父親の立場というのは生まれたままの男では坐れない。でもやはり父親という存在は必要なんでしょう。大黒柱とまでは言わなくても、何か存在感があるだけで全体がうまく動く、ということを最近感じるんです。うまくいってない家庭というのは、どうもそこが外れている気がするんです。男の、特に父親が担う役割は、今までのカウンセラーのような立場なのか、孤高の存在になるのか、その他なのか。とにかく父親の存在感が無いということが、問題を引き起こすか、広げるのか、問題を止められないのか、そんな気持ちを感じているんです。私は結婚していますので、その辺りも気になっています。
イメージ図

 お聞きしてて、仰ることほとんどそのまま「やっぱりそうか」みたいな感じがします。私も同じようなケースに沢山出くわしたり、それについて仮説的に色々な経験、それは現在のカウンセリング理論だけではなくして、精神分析とかユングの考えとか、現在の心理学で言っているようなことと関わることがあります。

 まず、「断ち切る」という機能は父親なんです。「包み込む」というのは母親なんです。包み込むというのは優しい訳ですよね。カウンセリングというのは包み込むような母親的優しさ、これにつながるような風に受けとられやすいし、確かにそうだと思うんです。ところが「断ち切る」というのは、カウンセリングと関係がないかというと、そうでもないんです。両方が必要なんだけど、包み込むという母親的機能がマイナスにはたらく場合もある。父親の切るというはたらきも、上手く機能する場合もあるし、マイナスに機能する場合もある。

 包み込むというのは、包み込む訳だから、そこから独立したいという独立を妨げる。だからこの頃、親離れしない子どもというのが一つ問題がある。それは実は子離れできない母親が居るんです。だから特に周りから見たら「あんたのところ、お子さんも良くできるし、国公立入ってますが、うちらの子はみんなアホばかりで」と言ってうらやましがられるような優秀な子どもが、立派な大学出て、一流会社へ就職すると思っていたら、一向に就職する気配がない。結婚する気配もない。「どないしてはるの?」と聞いたら、結局、優しいお父さんと優しいお母さんが、居心地が良い家庭を作ってしまって、巣離れできない。鷲でも、巣から突き落とすじゃないですか。それによって、ひょろつくけれど、皆独立して飛び立っていく訳です。そういう意味では、日本の親は子離れできない。それが閉じこもりの状態、つまり30才になっても、40才になっても、親と同居して、家を出たがらない。

 非常に矛盾していますが、親は悩んでいるんです。「他所様は皆就職して結婚して子どもも居るのに、うちの子はどうしてなんでしょう」と言ってることは嘘ではない。けれども深層心理的には、心の深いところでは<しかし、今が一番居心地がいいのよ>と思っている。<ここに赤の他人が、息子の嫁が来たら私が脅かされるけど、息子や娘は気心が分かっているから、いつまでも自分の子どもとして可愛がりたい>という、本能的な愛に満たされている訳です。その矛盾に本当に親が気づかない限り、引き離そうと思ってもあかんのです。

 今は母親が父親的な機能まで背負い込んでしまっていて、父親は居らん訳です。父親は何処にいるかというと、企業にさらわれている。だからほとんどは会社とか勤め先の仕事に追われている。これからちょっと変っていくかもわからんけどね。どういうことかというと、逃げている訳です。
「子どもが学校に行かない」とか言い出すと、「今日は残業でしんどかったんや。子どものことはお前に教育を任せとるやろ」とか言って、子育ての責任を父親として担おうとしない。全部奥さんにふってしまう。奥さんは一人重荷を背負って悩むという構図になります。

 子どもは父親を試している

 もう一つは、家庭内暴力として外に出るタイプですね。ところが、外に出さないタイプは、自分の方に向けるんです。どっちかなんです。外に出すことが社会的に許されないことだと「反社会的行動」で犯罪になります。これは割合外に姿が現われるのですから、すぐ新聞ダネになるんですが、内にこもっている者は、形に現われないからニュースにならへん。反社会的に対して非社会的で、社会環境を拒絶して内へ内へとこもってしまう
 ですから、家庭内暴力とかはそれだけエネルギーがある訳でしょ。だからこれをいつも否定的に取るのではなくして、「すごいエネルギーがあるなー、このエネルギーは大したものだなー」というふうに見る視点から関わってくれたら、皆から総スカンくっている非行児童とか犯罪者犯罪少年でも、「そういうふうに見てもらえる視点もあったんか」と、生き継いで蘇ると、僕は思うとるんです。

 ところが今は、大きく自己主張したり暴れたりする気力さえなくて、静かになってる。だから、静かになって大人しいというか上品というか、次々ええ言葉を並べてくれましたわ。けど何か生命力というか活力がないというのは、全部否定的に自分の中に入ってしまっている。表向きは皆優しくて静かだけども、本当の触れ合いはない。今は引きこもりが社会問題になっているということは、事態がさらに深刻化していると思うのですが、その一歩手前は、荒れる子どもですね。家庭内暴力です。

 それはどういう現象であったかというと、特に男の子。高校生くらいから荒れ始め、手がつけられない。物を放ったり投げたり暴力をする。それは父親を試しているんです。その時の父親の逃げの口上は、ものすごく物分りの良さそうなことを言うんです。「いやいや、お前の気持ちは分かる」とか。

 その時に、本気になって「そんなこと社会に出て許されると思っとるのか! 絶対それはしていかん!」というくらい迫力をもって切る。そうする力によって、子どもは<親父には負けるなー>と、<絶対あそこでは親父は許さんなー>と。
 結局、「それで世の中通っていくと思ったら甘い! 絶対ダメや!」と言うような父親に会いたいんや。17、18、19才になったら。
 ところが、父親が逃げたり誤魔化してると、そういう親父が<許せない>、となる訳です。<いっちょ試したれ>という気になるんです。それで「いやいや、分かってる」とか、すぐになだめる。優しいんじゃなくて、優しそうな父親を演じてしまうんですね。しかし子どもはちゃんと本心を見抜いて、<ええかげんにしとけ。俺はいつまでもテメエの子どもじゃねえぞ。俺もぼつぼつ男やぞ。親父も男やろ。男と男で対決しようと思って迫ってきたら、対決したらええやないか。何で逃げるんや!>、みたいなことで、蹴ったり殴ったりする訳です。

 その時に父親が「凄いな、お前がそこまで強くなったのなら、いっちょ対決しようか」みたいな父親になると、子どもは発達し、超えていけるんじゃないかな。いつまでもそこのところで丸められてしまうから、大人になれない。これはかなり当ってる。

 ところが全体に元気が無くなって、どこもかしこも、自己主張や自分から関係をつなげていくとか、呼びかけるとか触れ合うということを、こちらの方から自発的に関わっていくエネルギーが枯渇してきているので、金出して、親も付いて行って、特別の場面を用意してやらんとできんような時代になった。これが何かもっと日常の中でできんかなと思います。

 不自然な自然

 今日も出てくる前に、家内が「そんなアホなことありますかいな!」と言ってました。
 何かといったら、小学校ができて、それぞれにプールを作ったんです。そんなモン作らんでも、山の川というのは、上流やから綺麗な水なんですよ。昔から夏休みに入る前に、上級生が指導して石や砂を運ばせて、ある場所でせき止めたらプールみたいになるんです。それでみんなフリチンでそこで泳いでいたんです。だから順次指導制で、大人や学校が言わんでも、見よう見真似で、自然と触れ合うことを学んでいたんや。

 ところが、「川は危険ですから」ということで、文部省か教育委員会で禁止して、「その代わりにプールを作ります」いうてプールを作った。それに年寄りは反対したけど「危険だ」と。これは先生の自己防衛だと思うが、今度はプール当番というのが順番に出される訳です。子どもがプールに行ってる間に、お父ちゃんかお母ちゃんが順番にプールの横で番をして見守っている。忙しいのに。
 最初のうちは、1週間か10日に一度出るだけで良かったけど、子どもが段々減ってきた。それで「これではかなわん」という訳ですよ。さらに事態は深刻化して、小学校がつぶれてしまった。それで今立派なプールがほったらかしになってね、これが管理せなんだら、水も汚くなるし、「高い金出して、税金で作って何や」と言うてるんですね。
 それで学校を合併統合したわけです。そこでここの学校のプールを使うのですが、校長先生がまた弱い。本当は「先生が順番で出てきて毎日プールを使わせよ」と言えばいいのに、これがよう言わんのや。それで「皆さんで決めて下さい・・・」みたいなこと言ってたら、結局、夏休みの間、子どもがプールを使えるのがたった4日間やて。
「何をやっとるんや」と言うんです。「これが教育の内容が向上したことになるんか。何かおかしい」と、50歳60歳70歳の世代は、「俺たちの頭が古いのかなー。おかしいなー」と言うんです。

 昔が全て良かったとは言わんけど、自然な姿としては、兄弟が4人も5人もいてね、上の兄ちゃん姉ちゃんは小さい子の守をしたり、時にはいじめたりするけれど、そういう中で色々な触れ合い方を学んでいったはずです。ところが今は子どもが少なくなって、周りには子どもがいない。そこで大人が細工して、子ども会を作って、山にプールに連れて行かんといかん。時間も金もかかるし、特定の、作られた中では触れることができるけれど、もっと自然な形で触れ合えたらと思います。

 生きたいように生きたい

 例えば戦争中は美談が多いのですが、「美談が多い時代は不幸な時代だ」といいます。肉弾三銃士とか色々ありました。戦争という不幸な状況がある中で、命を投げ出す話が美談になるわけです。
 今でもテレビで、「小学生たちが村で田植えをした」とかいうのがニュースになるでしょ。田植えが特例なんですよ。地域の人が子どもを地場産業のところに連れて行って、ちょっと田植えを体験させたり芋作りを体験させたりする。そしてこういうことが特定のニュースになって話題になる。このような社会は、ちょっと不自然な社会だと思います。
 一生懸命にやってる人をけなす訳ではない。やってない人よりはいいのですが、どうでしょうか。

―― 管理化に置かなくてもいいところ、ほっとけば何とかなるところにまで、大人が手を出してしまう訳ですね。

 ですから、例えば吹田市では素晴らしい人が居て、「カウンセリングみたいアカン」と言うんです。病んだり問題起こしてから、クライエントとして対談してというのはいいけど、「それ以前に問題があるんや」と言うんです。
 そこで、小学校から高校生まで一まとめにして、10日間ちょっと帰ってこれんところに行って合宿する。テントも食糧も全部持って行って、それで手伝いの人は、「ええか、お米はハンゴウ使って炊くんだぞ」と。「食糧はここに置いてある。テントはここにあるんやから、張りたかったら教えに行くから」と言ってほっとく。
 そうしたら、子どもは初め、誰かがしてくれるのを待っとるけど、段々お腹すいてくるでしょ。ヘルパーも手伝いたくなるけど、ほっとく。そうしたら、子どもたちがハンゴウで飯を炊くけど、上手くいかんし、真っ黒焦げになる。けど、それでも体験のうち。大人は、先へ先へと考えてやってあげちゃうけど、それをやめる。そうすると、4日間何もせんで寝てた子がようやく起きて、「それはこうしたらええんとちゃうか」言って介入し出した訳や。すると、「兄ちゃんが言う方法がええな」ということになって、いい飯ができた。そこで「俺はこんな経験初めてや」と告白しだした。
「どういうこと?」と聞いたら、「うちのお母ちゃんは教育ママで、僕が本をほしいとか言ってないのに、先に先に参考書や本を買って、読みたくもない本を読まされて、お母ちゃんの言う通りにきたけど、段々嫌気が差してきた。“いいかげんにしてくれ、お母ちゃんの期待通りに生きていくのがしんどくなってきた”と、今日初めて分かった。母の好きなように自分は作られとった。母のペースに囲い込まれていた。俺は俺でしかない。生きたいように生きさしてほしい。息も絶え絶えだったんや」と言うんです。
 そういう体験をたっぷりやったら、参加した子どもたちが見違えるように生き生きし始めた。

 僕の姉でも言いますわ。長男は勉強して進学もうまいこといったけど、悩みは「起きよ、起きよ」と言っても起きへん訳や。目覚まし時計で起きんでも、母が起こしてくれるということを、ちゃんと知っとる訳ですね。
 だから、「何遍言ったらわかるの!」と怒ってたのを、僕が「姉さん、一遍な、遅刻してもええし、先生に叱られても、徹底的にほっとけ」と言ったら、「そんなことしたら大変やないの」と言い返してきたけど、「そこを我慢せな自主的にならん」と言ったら、姉はその通りほっておいた。すると子どもは遅刻して大恥かいて、先生に怒られた。それから、本人が自分で起きて自分で行くようになった。だから、先に先にというふうに囲い込んだり過保護にするとあかんな。

 ただ、難しいのは、自然にほっといたら交通事故で死なへんかな、さらわれへんかな、社会環境が悪くなっとるから、昔みたいにはいかんかも知れません。

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名古屋西別院仏青勉強会 年間テーマ:『心の扉を開く』


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