平成アーカイブス  <研修会の記録>

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【年間テーマ:  心の扉を開く】
平成15年度

共に相手の気持ちに触れていく

『心の扉を開く』1−1

7月29日勉強会1 [講師:西光義敞先生]

西光義敞(さいこう ぎしょう)

 引きこもりのケース

 今日はこの顔ぶれで、どうやって勉強しましょうか?

―― 1年間の勉強会テーマを立てさせて頂いた時、現在、社会的にも問題になっている「引きこもり」の話が出ました。お檀家さんのところへ行きますと、実際に引きこもってみえる方がみえるんです。それで、こちらも対応の仕方が分からないといいますか、励ましたり「頑張れ」というのも、その人にとって負担になるかも知れませんので、どのような対応をすればいいのか。できたら引きこもりを解きたい、ということですね。それで「引きこもりの問題を考えていきたい」ということで、年間テーマとしては、「心の扉をひらく」という言葉になりました。
 引きこもりの方を解き放すというか、社会に戻したいのですが、無理にすると相手にプレッシャーがかかりますし、下手にこちらも動けませんので、それが良いことなのかどうかも含めて、勉強させていただきたいということでお願いします。

 これは難しい問題ですね。ということは、引きこもりをしておられる子どもさんを援助の対象にするのか、家族を対象にするのか。あるいは、引きこもりを無くしたいと思っているチームの一員として加わるのか。どの程度の人間関係をつくっていくのか。 イメージ図
 突然皆さんが行って、「ここの子どもさんは学校行きはらへんそうやけど、どうしたんですか」なんて言うことは、かえって迷惑かもわからん。
 カウンセリングの初期というかな、基本モデルは「相談室モデル」って言いまして、一対一でカウンセリング・ルームで相談するスタイルやったんです。それは今でも続いていて、ますます対応が難しいケースが多いから、カウンセリングの理論も技法もすごく深まりを示すようになっている。だから、ちょいと話を聞いてやるということでは済まんから、カウンセラー資格が要るとかいうことになってね、それも「専門の学校を出なければいかん」、「いや、大学院修士レベル・博士レベル」って言うてね、最終的には臨床心理医とか日本カウンセラー資格とかいうふうに専門化してる、ということは、今でも専門的対応をしようと思ったら、教育を受けないとできないんです。

 それをちょいこらちょういとね、ちょっと行ってみてやるという訳にはいかない面はあります。色々なものが絡んでますからね。だから、援助ネットワークみたいなものをどう作っていくか、ということを考えなくてはいけない。
 例えばAという家のB君という子どもが引きこもっている。その引きこもりが段々深刻になってきて、中学でも高校でも、さらに深刻なのは、学校出て30前後になって、さらに40才になっても就職も結婚もしようとしない。遅れると問題が深刻化してきます。
 だから2〜3回くらいの勉強会を夜2時間ほどやってね、これで役にたつ、という程簡単なものではありません。

 それを言うと身も蓋もないですが、あまり軽く考えない方がいいと思います、が、その中で私たちはあくまで檀家さんのお宅のご家族の中で引きこもっている小中高、あるいは大人でもいいですよ、家族がすごく困ってみえる。それに「僧侶としても何らかの形で力になりたい。どうしたらいいのか」という風に限定していいのか。その辺りはどうでしょう。

―― 本当に重くなってしまうと手が出せないですが、初期の段階でもし手が出せたら、引きこもりの前段階といいますか。例えば、<こんな風な家族だと子どもが引きもりになる可能性がある>という、そういう風なところでアドバイスができたら、と思います。

 それで、何度かそういうケースを経験してみえます? 引きこもりで困ってみえる家庭を。

―― あります。

 そうした時に、何かこう予想がつくとか、引きこもりのある家庭の人間関係や夫婦関係・親子関係に、こういう傾向がある、ということは感じられます?

―― 何となく似ています。優しいというか、弱々しさを感じます。もちろん引きこもられたからそうなったのかも知れませんけど、何となく親が軟弱な印象ですね。受ける印象として。

 印象はすごく大事ですね。何軒の家庭を想定して言ってみえるか分かりませんが、何となしに、家族の人間関係が荒れてるというのではなくて、優しい感じ。

―― よく言えば優しいけど、生き生きしてないんです。線が細い。そっと居る。よそよそしいというより、何となく躍動感が無いんです。子どもは隣の部屋で閉じこもって、出て来ませんから分かりませんが。これが2〜3例あります。無気力というより・・・これは表現が難しいんですが・・・
 あと、メールで「悩み相談」を受けているのですが、親戚に閉じこもりの人がいてその対応を聞かれました。それでこの勉強会で教えていただいたことを参考にしたいと思っています。
 他の方はいかがですか?
―― うちは、まだ閉じこもりの家はありませんが、これからの参考にしたいと思います。私はまだ僧侶に成り立てですし、深刻な悩みにはまだ出あっていません。住職はあるかも知れませんけど。それから、悩みの相談は、下手な対応はしてはいけない、と聞いています。僧侶のひとことは重いみたいですから、下手なことは言えません。檀家さんの中では、僧侶は敬われることが多いので、責任が重大だなと思います。
 他にありますか?
―― 私がお檀家さんの家に行った時、家族中でお参りするように言う家庭はいいのですが、普通にそういう言葉が出てこない家庭は、ちょっとまずいかな、と思います。よそよそしい雰囲気がある家庭は、引きこもりにつながっていく可能性が高いな、と思います。

 子どもも一緒にお参りさせるように言う家庭はいいけど、そういう言葉が出てこない家庭は問題がある訳ですね。

―― 私が自分から言うこともあります。「全員集まってください」というふうに。

 そういうふうな家庭は、<型どおりにお勤めしてもらったらいい>というかんじですか?

―― そうですね。形だけで中身がないというか、本音で話せない、という雰囲気があります。
 なるほど。他にはいかがですか?
―― 別院は、皆さんと違って、自坊のお檀家さんではありませんので、毎月違った人が行きます。そうするとなかなか密に触れ合えないですね。何度か顔を合せれば親しくなりますが。

 色んなことを感じさせられますが、どこから申し上げたらいいかなー。
 表面的には、引きこもりだったり、不登校があったり、家庭内暴力があったり、お年よりのターミナルケアの問題があったり、色々あるでしょ。問題ということに焦点を絞れば、問題別ケース研究になります。徹底的に引きこもりについて追求するのなら、具体的に引きこもりで困ってみえるケースを出してもらって、それを皆で検討するとしたら、引きこもり問題のケース研究ということになる。それはそれでものすごく勉強になります。

 ただ、問題別でやったら、ちょっと聞いてみただけでも色々なケースがありますから、人によっては勉強になるけど、他の人には参考程度にしかなりません。
 そこで、広い意味でのカウンセリング的、というかな、対応のエッセンスをお話しましょう。

 カタツムリを叩いても余計に殻にこもる

 対応する時に、相手が困ったり訴えている問題に焦点を当てて対応するのではカウンセリングになりません。つまり“この人は引きこもりで困っているな”とか“この人は仏壇の荘厳の仕方を聞いてるな”となれば、みな問題は別でしょ。問題別にきちっと答えようと思ったら、専門的な知識がないとあかんのです。例えば“お寺さんやから聞くんやけど”と言われて、お勤めのこと教義のことをどんどん聞いてこられたら、ちゃんと答えられますか? お寺や地域によってしきたりがまちまちということもあります。
 これは寺におったら必ず聞かれることだから、これに焦点しぼって勉強してみえると思いますが、去年は人間関係を援助していくところに焦点を当てて3回やって、カウンセリング的援助はどこにポイントがあるのかということをつかんでもらういました。
 今回は引きこもりの問題だけど、色々と違う問題が起こってきた時でも応用が利くというか、対応の仕方に自信が出てくると思います。私はそのへんのところを皆さんに知ってほしいと思います。
 それで、話す事柄に焦点を当てるのではなく、対応の仕方をどうするのか、ということです。

 電話相談というのもありますけど、カウンセリングのポイントは、直接に触れた時の相手の悩みに何とか応えていくという、そういう援助ですね。よく言うんですが、「カウンセリング」という言葉が乱用されすぎて、雑誌でも、悩みについて精神科医や教育学者が「こうしたらいいでしょう」と言ってるような記事があるじゃないですか。あれは一問一答になっています。それに文字によるコミニケーションで、直接会って言葉によるコミニケーションではありません。
 一問一答ではなくて、話したり聞いたり、聞いたり話すと、生身の人間が生身の身体から言葉を聞いて、そして理解し、こちらも生身の言葉をぶつけて反応を見ながらやりとりしていくプロセスがカウンセリングです。
 クライアントとカウンセラーは、生に応対している訳ですから、そこでの言葉のやりとり、それをどのように聞くのか、どういうふうに呼びかけをするのか、というところに焦点をしぼっていくと、援助してあげたい相手であるクライアントが仰ることをしっかり聞いて受け止める、ということが基本になります。

 その時に、しっかり何をどう聞くのか。これが僕はポイントだと思うのですが、私たちが聞く時には、<この人はどういう問題を持ってみえるんだろうか?>と聞いてしまいますよ。引きこもりだと、<閉じこもっているという問題やな>と。普通の子なら学校に行くのに、このB君は閉じこもっている、異常行動を起こしている、それを何とかしてあげたい、と。そうすると、閉じこもってる子を学校に行かせるようにする。そんなことができたら大手柄ですよね。でも、そうは簡単にいきません。

 それともうひとつ、一般の考えでは、閉じこもっていることは悪い、行かせることがいいことだ、という価値観が暗黙のうちにあるわけです。しかし、そうかな、ということも考えられる訳です。
 閉じこもりといっても、どういう意味の閉じこもりか、ということに焦点を絞れば、こちらの価値観で決め付けてしまわないで、心をさらにして、といってもさらにはならんけど、相手に向かって、この人は今どんな気持ちなのか、どんな感じでいるのかな、というところだけに焦点を絞る。
「どうしていらっしゃるんですか?」と言ったら、返事もしない。返事もしないということは、自分の気持ちを言語化することができないのか、する気はないのか、反抗しているのかすら分からない訳でしょ。「登校拒否」という言葉がありましたね、ひととき。今は「登校拒否」という言葉は消えました。なぜかというと、<学校に行くことを本人が拒否している>というのは、周りの人の勝手な解釈だからです。

 実際に閉じこもっている子に聞いたら、「朝、目が覚めて<今日は行くぞ>と思うのに行けない。僕は行きたいんやけど行けないんや」と、そう言ってます。段々そういうことが、カウンセリングした結果わかってきました。
 それなのに、担任の先生が出かけて行って、「お前はなんで出かけてこんのや。男同士の話をしようじゃないか。今日は出て来い」というようなやり方をするんですね。先生は権威がありますから「行きます」と言うんやけど、行けない。これは拒否しているんじゃない。だから「不登校」という言葉に変わりました。

 一般に、引きこもりということをマイナスであると暗黙のうちに決め付けてますが、一度それを外してみるような心の柔らかさが必要やないかな。どうしたらいいのかと言ったら、何日も学校に行かないB君がいれば、B君に会えって聞いたら「何か行く気がせんのやね」と言って、気持ちだけを受け止めていく。言葉にもしてくれない人がきっと多いと思いますよ。それを大人や先生が、「黙っとったら分からへんやないか」と決め付けてしまうから、余計にびびってしまう
 だから、ゆっくり待って、「気持ちが言葉にならんのかなー」・・・と。「言え言え」と急かすんじゃなくて、「あなたの気持ちは、今何か言ってくれるかと思って待ってるけど、あなたから言葉が聞こえてこないのは、自分の気持ちを言葉にうまく出せないのかな、出したくないのかな、ちょっと分からないけど、そんなところかなー」みたいな付き合い方をして、また待つというのがポイントじゃないでしょうか。

 そうすると、これは引きこもりのご家族だけではなく、他の違った家、違った問題をかかえたケースに出くわしても、それの事情や問題を問題とするのではなく、どういう気持ちで困ってはるのかなー、悩んではるのかなー、それは分からないけど、聞かせもらうしか仕方がない。

 どうしても私たちは、<助言してやったら役に立つ>と、思い込んでいるのですが、「助言というのは余り役にたたん」と分かってきたのがカウンセリングなんです。助言せんとどうしたらいいのか。助言するということは、相手の抱えている問題の原因をつきつめて、その原因を無くすように助言してやったらいい、という行動でしょ。だから原因を突き止めるために聞くわけです。
 しかし、どうもそうではないらしい。まず大事なのは、相手が困っている、悩んでいる、沈んでる、いらいらしてる、どういう感情や実感が現われようと、目の前のこの人の気持ちにできるだけ寄り添って、この人が今感じているような感じを、こういう感じかな、こういう風に辛いのかな、と、相手が色々な形で表現してくることを手がかりにしながら、共に相手の気持ちに触れていこうとする。そういうことをしてくれる人が、今ここに居てくれるということが、相手にとってはとても援助的なわけです。

<いっぺん助言してやろう>という考えは捨てる。助言は大事だけど、助言なんて私はできないんだと。だから、これから30分か1時間か知らんけど、<地球上には何十億の人がいるのに、私の人生のあるひとこま、時間と空間をこの人と過すかけがえの無いご縁や>と、「これを最大限に大事にしようと思ってね、余り時間がないけど、話し合いできるかな、よろしかったら」みたいなことを言って、1時間なら1時間に限定して、「どんな感じですか?」と聞いたら、後はごちゃごちゃ言わんとじっと待ってる。そういうふうなかかわり方、大事にされ方というのは、日常では経験せんわけです。

 何か言えば、ぱっと決め付けられてしまう。それで皆いじけてしまう。ところが、わずか30分でも1時間でもそういうふうに関わってくれる人があると、初めは警戒がありますから、そんなやすやすと「それなら言わせてもらいましょか」なんて訳にはいかんけどね。じっと、カウンセラーがものを言わないと、<この人は本物か、ホンマに私を大事にしてくれているのかな。どうもこういうのはくさいぞ。親切ごかしに言って、最後は泥吐かせるつもりかも。こないだ僕を調べたポリもそうやった。格好のいいこと言ってて、そんなやすやすとは乗らんぞ>という警戒心によって、顔がこわばるのです。これは自己防衛の姿がこれなんです。

 自己防衛の殻を捨てて、生き生きとするようにしてやろうと思って「元気出せよ」とか励ましたり、発破かけたりすればするほど、丁度カタツムリに「引っ込んどったらあかんやないか。目を出せ、角出して歩けよ」と言ってもダメなように、生き生きできるような雰囲気を、といったら、触らんのが一番ですよね。
 ところが私たちは、「カタツムリというのは、もっと角出して、やり出して葉の上を元気よく歩くのが、お前の本来の姿やないかい!」と言って、触ったり叩いたりするから、ますます閉じこもってしまう。だから、時間が許せば30分や1時間でもいいから、その人とともに人間として居れる。住職と門徒とか、大人と子どもという、この世の上下関係を外して、人間としてという平等な地点に立って、仏教でいえば「あんたも凡夫、わたしも凡夫や。ともにこれ凡夫」みたいなところに腹を据えて、「辛いことあるよね。僕も辛いよなー」ぐらいのこと言えば、もし相手が何も言わんでも、そういう中で、<これは本物やな、私は大事にされてるな>と思ったら、ちゃんと相手を感じ取る。

 そういうことを重ねて、皆さんが今度ご院さんになってくれた時に、<ご院さんやったら、怒らんと、笑わんと一緒に付き合ってくれるかもわからん>と、信頼が、いっぺんにいかんでも、次から、どっかのとこで開いてくれて、「ご院さん、今まで言わなんだけど・・・」という話になれば、それこそ人間的対応、カウンセリング的な援助関係の芽が出てきたということで成功ですね。

 ご院さんというのは、住職で、高みにあるイメージですから、そう心を開いて「なら言わしてもらいましょ」というふうにはならん。けれども、<何かこのご院さん、人間的なところがあって、固いように見えるけど固い人ではないな>という感じがちらっと見えたら、「こんなこと言うのは恥かしいけど、誰にも言ってませんが、いいでしょうか」となったら、「何でしょう?」と耳を傾けて、その後は気持ち聞く。気持ちを聞く、ということだけに焦点を絞って聞いてみたら、どう変ってくるか。それを体験してほしいんです。

 自分の権威主義的な体質に気づく

 今までのことについてはこれくらいのコメントですが、皆さんの方で、新たな疑問質問はありませんか?

―― 余計なことを言わずに、本人に考えさせることが大事なんでしょうか。

 そうですね。ところが、「考えさせる」と言った時に、「させる」というのは強制の言葉ですから、本人が自由に考えたり、心のはたらきで考えることも大事だけど、感じるということがもっと大事なんです。
 ところが「ちょっと自分のこと考えなさい」とか、「反省しろ」と、皆そういうふうに迫る。それがますますダメにしている。権威ある者が、例えば一般市民よりは警察、子どもよりは親、というと、どうしても「考えさせる」、聞くのでさえ「聞いてやる」と言う
 これも傲慢な言葉で、「聞いてやるさかい言ってみな」と。これ、言う方が権威があるでしょ。「じゃあ聞いてもらえますか」というのは弱い立場じゃないですか。そういう意味の暗黙のうちにある自分の権威主義のようなものは捨てて、どうしてもそうなりがちな自分の権威主義的な体質、<そういうふうに関わりがちやな>ということに自分自身が気付けてきたら、段々それは少なくなってくるんですけどね。「俺は何も権威主義で言ってるんじゃない」と突っ張るようなことではあかんので、人から言われて、<僕にもそういう決め付ける癖があるんかな>という風に受け止めたらいい。ところが「そんなつもりはありません」といって、バーンと弾き返すでしょ。あれが人間関係をおかしくするね。

 以前ここで、5分か10分、どういう受け止め方をするのか、というのをやりましたね。正直いって、これはまずいと思った。テープ残ってるかな? 消した?

―― はい、消しました。

 僕の印象では、ご婦人の方が、「何かこのあたりは陰気で、うっとうしいイメージだ」と言われるんですよ。それに対して、「別院では色々良いことをやってるから、もっとお参りしたらどうか」って言いたくなるのが職員さんの気持ちなんですね。
 相手は「うっとうしい」とか言ってるんですよ。それを「うっとうしいことは無い。良いことやってるんですよ」と、一生懸命になって前に前に言ってしまってる。本当は簡単なことで、「ああ、そうか。あなたが何とはなしに近寄らんのは、あなたにしてみたら、何かうっとうしい感じがしてるのかな。気がつかなかったけど、それはどういう感じなのかな?」と、聞いていったら、それで良いんです。

 これは<感じ>だから、どんな風に<うっとうしい>のか、もっと聞いていかなければ分からない。「そうか、うっとうしいのか。どんな感じのうっとうしさなのかな?」と聞いていったら、むこうはどんどん「うまいこと言われへんけど」と、首振りながら、沈黙になりながら言葉を捜す。
 これは大事でね、自分でも「暗い」・「うっとうしい」と、言葉で一応は表現したけれど、「一言では表現できん、何か知らんけど・・・」と、言葉を変えて、一生懸命表現しようとするでしょ。そういうプロセスが、自分の感じている感情が何なのかな、と、本人自身が自分と取り組みをするようになる

 一人一人が自分としっかり取り組んでもらえるように援助する、ということが、本人の自主独立心を育てる援助という訳やから、せっかくカウンセリングを勉強したのに全然身についてない、という感じがしてね。
 弁解ではなくて、ちょっとそういうような対応をしたら、どういうふうに続くか、相手の気持ちになって聞くケースをもっとやってみましょう、となれば、皆が体験学習・ロールプレイングをやったら、ものすごくはっきりしてきますね。援助というのは、そういうことじゃないかな。

―― それは、2回目の勉強会の時なんですね。3回目の時はやり方を変えて、という形でしたね。最初は簡単な説明を受けただけで、そういうロールプレイングをやってみました。その時の婦人は、ある檀家さんを想定して私がやったものです。まあ、一応成りきって。その時の相談相手は誰だったか忘れましたが、「ちょっとこの辺りに引っ越して来たけど、陰気な感じがしてます」ということを私が言ったら、「いやいや寺というのは明るいところで」とか「元気良く生きる」と応えが返ってきました。確かに私もその檀家さんに同じようなことを言ったかな、と立場を変えて聞いていたわけです。で、<なるほど、こういうふうに接しられては、檀家さんは立つ瀬が無いな>と、言葉を受けている私は分かりました。言ってる相手は分からなかっただろうけど。
 その時に先生が仰ったかな、と思うんですけれど、相手の「何となく陰気です」ということを、相談者が否定してしてしまっています。カウンセリングも何も分からない状態ですから、ついつい私も檀家さんに「お寺は明るいところです。仏壇屋は沢山あるけど、仏壇も陰気なものではありません」と、言ってしまいました。だけど、聞く立場になってみると、こんな風に言われたんでは話は続かんな、と。相手の演説になってしまいますね。
 だから私は、<なるほど、こういう対応はあかんな>と、実感として、相手の立場になってよく分かりました。あの時、先生もそのような内容を仰いました。それで、何人かやっていくうちに、多少そういう「感じが大事」ということを、充分ではないんですけど、多少はそういうふうに気をつけて、後で居酒屋で飲みながらも「そういう感じですか?」と、笑いながら聞きあってました。

 今年も、そういう理論を聞いて、<なるほど>と、納得するのもいいけど、聞いて納得するのは頭で納得するだけで、なかなか身につかんので、ああいうロールプレイイングとか、ミニカウンセリングとかいうような体験風の学習を重ねながら、<自分もこういう風に言ってるけど、立場を変えてみたら嫌な感じがするな>とかね。そういうことに気づいていくというのを、たっぷりと身体の中に染み渡らせていく、というのがいいんじゃないかな。

 沈黙の価値

―― それで、まだ話してくれればいいけど、先ほどの引きこもりだと、その人に会うということも難しいですよね。部屋から出てくるくらいなら、引きこもってないと思うんですよ。私の気配を感じたら、ドアを閉めてしまいます。そうすると、まず家族ですよね。引きこもってる本人に会うことはできないわけですから、実際に僧侶ができることというと、その家族の方の気持ちを聞かせてもらう、というところしかないのかも知れません。

 誰が一番深刻に考えているのか。皆が無関心なのか。それは空気で察知できますよね。例えばお母さんが、すごく悩んでいたとしたら、そのお母さんの気持ちにカウンセリング的、まあカウンセリングという言葉はあまり使わない方がいいかも知れませんが、今言ったように「この頃どうですか?」と、お母さんをクライアントにして関わる。これやったらチャンスは出てきますね。

 一応、ことちらがカウンセラー的な立場だったとしたら、いつも弁解や説得するという態度が改まらないと、去年のように<これでは話が続かんな>となってしまいます。相手は私に対して説得したり説明したりばかりで、私は「陰気や」と言ってるのに、「そんなこと無い」と、否定するわけです。陰気な感じがしてる、というのが、私のありのままの気持ちで、良いか悪いかは知らんけど、少なくとも、どんな感じなのかな、と、すっと受け止めてくれたらええのに、「いや、そうじゃない」と、言われたら、<もう、よろしいわ>と、投げやりな気持ちになる。

 ですから、お母さんを説得するのではなく、「針のむしろですわ、子どもが毎日毎日青い顔して家に閉じこもっているのを見たら」と言うたら、「針のむしろに座らされているように辛いんですねー」という感じでいくと、案外話しは続いていきます。
 関係がよくなると、話が続いていきますね。ところが、途中でぱしっと切ってね、両方が沈黙したら後は交流が途絶えるわけだから、それぞれが自分の心の中で空回りするんです。<どうしていつもこの人はこうなんや>とか、<私はいつも馬鹿にされている>と感じ、向こうは向こうで<しぶといやっちゃな>と、交流が途絶えるわけやから、交流が途絶えないようにしようと思ったら、気持ちに触れるような関わり方しかないんやないかな。

―― そうすると、時間をかけて、ということですね。時間を気にしちゃダメですね。ゆっくりゆっくり。

 皆さん忙しいでしょ。私は一軒のお勤めもゆっくり勤めるし、時間とってゆっくり法話をするけど、「こういう風にはできませんワ」というお寺さんがみえます。また大阪でもカウンセリングも勉強したいというお寺さんがみえますが、「時間が要るんやな」とかね、「とても忙しゅうて、そんなに時間をとってられません」と言う。寺院生活者の悩みもあるんで、これはこれで考えていかないかんな。
 できるならば、やっぱり一定の、その人だけに与えられた自由に振舞える時間。考えさせるのではなく、考えずにはおれない、じっくり感じていることを自分で気付けるような、ゆとりのある時間と空間。そういう場所を用意することがカウンセリングではないかと思います。
 だから、それを「絶対時間とれない」というと、ちょっと難しい。

―― 結局、その人が自分の心と正直に向き合っていなかったり、誤魔化して、にっちもさっちもいかなくなってしまうんですかね。そうすると、正直に向き合う時間を作ってあげる、ということがカウンセリングなんですね。

 そうですね。

―― でも、そうすると、反省の連続になってしまいませんか?

 外から強制されて「少しは内省しろ、反省しろ」というような場合は、しんどくなってきます
「そういうふうに感じるのも自由やけど、感じたくなかったら感じないのも自由ですよ」という程に自由。「自由に話ししても、ここから話は漏れませんよ」と、よく言うんです。相談室でも。そうしたら、かけ出しのカウンセラーがトレーニングすると、沈黙が続くといらいらしてくる。
 クライアントがいらいらする前に、カウンセラーがいらいらして、「もう5分経ってるのに、あなた何も仰らないけど、ここでは本当に秘密は守りますからね、どうぞ遠慮なしに言って下さい」と言うんですよ。

 そうすると、沈黙はいけないみたいになるでしょ。沈黙は許されてないわけで、「発言せい、発言せい」ということを強制されている、ということになるんです。
 だから、極端に言えば、「お約束で1時間黙っていても、それはあなたの自由ですよ」と。また、「喋られたら、なるべくあなたのことが分かるように、できるだけ分かりたいと思っています。それくらいしかできません」と。「助言とかはできませんけど、そんなんでよろしかったらどうぞ」と。こう言って、相手が沈黙しとったら、自分も沈黙しておく、という形です。

 沈黙もひとつの研究テーマなんです。本当に鎧を着ているがごとく<自分を外に出したくない>という沈黙もあれば、沈黙の中でじっと自分を見つめ直し、反省し、決め付けていた見方が変わるり、柔らかになってくる。言葉には出ないけれど、心が段々柔らかになってくる。案外このプロセスが沈黙の間にあるんですね。
 それを「黙っとったら分かれへんやないか」と、生活指導の先生みたいに攻め立てるけど、ゆっくり関わっていくと、別のプロセスが出てくるんじゃないかな。

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平成15年度 名古屋西別院仏青勉強会 年間テーマ:『心の扉を開く』


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