平成アーカイブス  <研修会の記録>

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【年間テーマ:  心の扉を開く】
平成15年度

傷つけあう人間関係の中で

『心の扉を開く』2−1

9月29日勉強会1 [講師:西光義敞先生]

 心を閉じさせない関わり方

 今晩は参加されている皆様のご意向に従って進めていこうと思いますが、去年から今年にかけてずっと休まずに出て来ていただいてる方に、その辺りをちょっとお話いただけますか。

―― 去年は「家庭・家族」というテーマでしたけれども、今年はまず全て白紙に戻して考え、引きこもりの問題が、社会的にも身近にもありましたので、今年1年、テーマとして「心の扉をひらく」ということで勉強させていただこうと思いまして、じゃあ、また西光先生にお願いしよう、ということでご登壇いただいた訳です。
 前回はそういうことでお話を聞き、本当に引きこもっている人の所へ行ってぱっと解決なんて程簡単なことではない、と。そうすると、周辺の問題であろうと。引きこもりの人を抱えた家族に対してのケアとか、そんなことを含めて話をしていただきましたが、具体的なところはまだお聞きしてないな、と思いまして、今日はもう少し深めてお聞きできたら、と思います。
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 今年1年、3回ですが、引きこもりについて勉強していくということですね。1回目は具体的な深まりはなかったので、今回はちょっとでも深めたい、ということですね。私もそういうことで心の準備をして参っております。
 前回私ちょっと気になったのは、なぜ今、引きこもりがそんなに問題なのか、という主体的なところを話し合うと、「そんなこと気にしてない」とか、「あまりピンとこない」と仰る方もおられたので、今晩確認するのは、それでよろしいですね、ということをお聞きしたいのです。
 もう一つは、なぜこの仏教青年会が「引きこもり」に絞って家族の問題をテーマにしたのか、ということですが、それは、寺院におりますと、地域なり檀家の人との接触が多い。たとえば檀家参りに行くと、表に浮かび上がってこないけど、引きこもりの人を抱えてかなり悩んでいる人に会うわけです。そこで、「宗教家として」というのは大げさかもしれませんが、何とか手を差し伸べられないか。どういうふうにそういう人たちと接していけばいいのかな、という非常に実践的な気持ちが中心になっているんだな、と私は理解したんですが、そういうことでよろしいですね。

―― はい、お願いします。

 それで、引きこもりというのは、大変深刻になっています。だから引きこもった人を抱えている家族、これを援助しようと色々な手順がありますし、色々な関わり方があります。心理的に言いますと、精神科医、セラピスト、カウンセラーの長期に渡るお世話になると思うのですが、今勉強する立場の皆さんは専門家ではない。専門家ではないけれど何とか関わりたい。
 問題が深刻になってしまってからでは専門家に任すしかないが、それ以前は、そういう傾向があるんじゃないかな、というご家庭。それを予防的というか、潜在的に隠れているけど、どうしたらいいかな、と。そういうようなところで関わって、うまく関われたら、予防的といいますか、そういう役割も案外大きいんじゃないか、と私は受けとって、非常に実践的な課題もはっきりしているし、焦点も絞られてる。今日と後一回ですが、みんなで頑張らせていただけたらいいな、と思って参ったわけです。

―― 私はそうした当事者ではないので、関係ないと思っちゃうんですが。もっと自分に関係のある話を聞きたいと。

 ええと、こちらの会員ではなく、私がここに来るということでお越しになられたんですね。一応この会はこの会で目的がある訳ですから、それにしたがって進めたいと思います。その中で、聞いているうちにご自身にとって関係の無い問題なのか、どこかで関係のある問題なのか、今日聞いていかれて判断して下さい。どう展開するかわかりませんが。

―― 引きこもりというのは、性格にも関係ありますよね。あと環境。会社の中で悩んでしまうとか、付き合い方が少し劣っているのじゃないか、ということが気になってしまって、引きこもる。問題を提起して、ある人物をとらえて説明していただくと、より一層わかる気がします。

 一口に引きこもりといっても、その人の性格や環境が絡んでいるから、一概には言えないだろうと。それで具体的なケースをあげて進めていただけたら、ということですね。

―― おそらく誰にでも引きこもりになる要因があって、私にもあると思います。ただ、何とか色々なご縁で、私は引きこもりにならない状況なんですが、逆に、私が言った一言で他人が傷ついて引きこもらせてしまった可能性もあります。
 色んなことを考えますと、重度の引きこもりでなくても、今回のテーマは「心の扉を開く」ですけど、相手の心を閉じさせるようなことを何か言ってしまったり、やってしまったり。そういう自分自身が加害者的なことをやったかも知れない。
 自分自身の子どもの頃を考えると、危ない時期もあったな、と。ただ、他のご縁があって引きこもりにはならなかった。何とか心を開く方向には行った。でも、色々揺れたな、ということはあるんですね。そうすると、もう少し意識的に、人を傷つけたりしないとか、心を閉じさせてしまわないような行動、言葉、人との関わり方、そこらへんを学びたいな、と思います。そこらへんが予防的ということになると思います。

 ご自分を振り返られて、こちらはそのつもりがなかったのに、こちらの呼びかけによって、意外に傷つけてしまって。そのことが原因になって閉じこもってしまったという経験、アプローチ、声かけの仕方によって問題が起こる。ただ、そういうことがあったら、怖くて、結局何も言わなければいい、近寄らなければいい、ということでは解決にはなりませんよね。どういう声かけをしたら良いのか、ということもありますしね。そのへんがもう少し具体的に「ああそうか」というふうに学べたらいいが、ということですね。

 家族内のコミュニケーション

―― 実際に、最近ありまして。何気ない一言が人を傷つけてしまいまして、これは真剣に学ばないと危ないな、ということを、ひしひしと感じています。そういう傾向がある人に、そういうことを言ってしまうことの怖さですね。ちょっと実感しています。

 先回も、暮らしの中で切実に考えなくては、というケースに出くわしてらっしゃるので、非常に取り組みが主体的積極的かなという気がしたんですけど。そういうケースを直接知っているのと、本ででも知ってて関心があるのと、全然関係の無い世界だというのでは、だいぶ関わりに濃淡ができてきますが、具体的なケースということでしたら、一つのケースを出していただいて、それを中心に話し合うということも一つの進め方やと思います。

―― 僧侶として、ということですが、法事の席などで雑談をします。そうするときに話題が出ますが、例えば部落差別というような話題が出たりします。私自身に何も知識がないと、「はあ、そうですか」となってしまうんですが、基幹運動などで色々勉強させていただいたことが役に立ちまして、間違っている部分は「それは違います」と言えるになりました。それで法事の席で色々な話題が出ても対応できるようになりました。
 今後の話題で、引きこもりの話題が出てくる可能性がある訳です。そういう時、おそらくバリバリ働いてみえる年配の方は、「そんなもんは甘えとるんや」って、多分言いたいと思うんです。「ケツ叩いても社会に出してしまえ」みたいなことを言われた時に、「はあ、そうですか」と言うてしまうんではなく、ちゃんと勉強させていただかんと、「そんな簡単な問題じゃないんですよ」と言うこともできない。そういうためには、きっちりと勉強しておきたいと思います。

 直接、引きこもりの問題に出くわしたりしたことはないけれど、それに関連した家庭の問題、ものの言い方、受け止め方がかなり問題じゃないかな、ということですね。差別発言的なことに出くわすことがある。勉強になっているのは、反差別的な勉強会ね。それが役に立ってると思うけど、これからもますますそういうことに出くわす可能性がある。だから勉強したい、ということですね。

―― 色んな人に出あって、自分は何気なく言ったのに、ついつい相手が打撃を蒙ってしまって、その人が引きこもりになってしまう。特に上司と部下の間はありえますし、仲間同士もあります

 今までお聞きして、一つは初めに申したことと関わるんですけど、自分の中の家族関係がどうなっているかな、と。自分や家族の中に引きこもりが無かったとしても、もうちょっと基本的なことですが、どういう家族関係ですか? 例えば夫婦関係として、親子関係として、というのは、基本にはコミュニケーションの問題があると思うんです。その辺がどうなっているのか。閉じていないか。心を開くというのは、開かれたコミュニケーションになっているのか。あるいは、一方的なコミュニケーションになっていないだろうか。双方向のコミュニケーションになっているだろうか。
 今、引きこもりということに焦点は置くけれども、引きこもりというのは、家族関係、家族のコミュニケーションというものを度外視しては起こっても来ないし、解決のしようがないのです。だから、そこへ焦点を絞っていくと、閉じこもりだけでなくして、その他、病的な現われ方をするのは色々あるわけですから、そういうことも頭に入れて勉強すると、少し幅と深みができるんじゃないかなと、いう感じがします。

 寄り合い甘えあい支えあってきた日本の社会

―― 私は、人を傷つけた発言をしても分からないんです。逆に、人から嫌なことを言われると嫌だなと、すごく傷つくんです。それは当たり前かと思うんですが、強くなる方法って無いですか?

 色々性格も関わってきますよね。同じ事を聞いても、すごく傷ついたり、落ち込んだりするタイプの人と、「へっちゃらや」という人もいますね。どちらが良いということじゃなくて、そういう傾向があるな、ということは深く自覚していくほうがいいんじゃないかな。
 僕はあまり「これがいい」とか「悪い」とか、ぱしっと決め付けた価値観で見るんじゃなくて、ちょっと緩やかにした方がいいんじゃないかな、というふうに感じます。

―― 私以上に神経質な人が、引きこもりに入っていく場合があるんですよね。そういった冷たい一言を言われたばっかりに「人に会いたくない」とか。言った本人はそういうつもりは無くても、実際に聞いた方はそう受け止めてしまって、引きこもってしまう。

 自分の言ったことが人を傷つける、けれども悪意はない。あるいは、相手の心を傷つけるということすら気づかない。だから怖いという話と、今仰ってるのは、人から言われてすぐ傷ついてしまう自分が問題。何とか傷つかずに毅然と生きられる方法はないのか、という課題もあるんですが。これは閉じこもりの問題と、どう関わってきますかね。
 今出ている方向に話が進んでいくと、閉じこもりの問題は病的だ、不健康だ、反社会的だ、ということで、何度もそうしたケースにであって、しっかり勉強したいということと、もっと一般的に、人にものを言った時に、自分の言ったことが図らずも人を傷つけているんじゃないか。人は何でもないと思って言ってるんだけど、こちらが傷つく。そういうことは浮上しないけど色々あるんじゃないかな、という問題になりますと、これは閉じこもりの問題だけじゃなくして、かなり基本的な、色んなことろに波及する、どこでもあるような、色んな問題と関わってくる。

 その中で今、閉じこもりに焦点を置くのはいいですけど、これは家族病理の問題ですね。あるいは、家族内の人間関係がうまくいかないという問題。あるいは家族内のコミュニケーションがうまくいっていないということ。そのひとつの現われとして引きこもりの問題が焦点が当っています。
 他にだってある訳ですよ。典型的なのは摂食障害。これはある時に、もう何でも口にして食べる。真夜中に冷蔵庫の扉を開けて、何でもばくばく食べる。かと思ったら、掌を返したように一切何も食べない。意識のレベルだと、「私は太っちょだから、もっと痩せたい」と。客観的に見たら「あんな、それ以上痩せたら大変やないの」と。ところが、「こんな太っていて格好悪いから外に出られない。嫌だ」と、本人はそう思うわけです。だからこういうのは医者に連れて行っても「医学的にはどこも悪いところはありません」と言われますね。だから、これは身体の病ではない、心に関わるんやな、と精神科医かセラピストのところへ行く。こうなってくる訳ですが、これもかなり深刻ですよね。

 閉じこもりもあるし、家庭内暴力もあります。家庭内におけるいじめの問題もあります。いじめも色んな次元があってね、若いお母さんが小さな子どもをいじめたり殺したりするケースもあれば、90歳の親と70歳の子どもという親子関係問題もあります。70歳の子どもが90歳の親を介護して看てるわけです。自分の肉親なのにいじめる。色んないじめ方がある訳です。「よく言うよ、どうして私が母親をいじめますか。私がこんなに尽くしているのに、お母さんボケたな」と言うけど、そこからトラブルが起こってくるとか、色んな問題があります。

 現在、日本の家族というのは、非常に難しい状況に置かれている。家族がまっとうに機能しにくい時代社会に私たちは生きているわけです。そうすると、過去はどうだったのか、という過去との比較もいるでしょうし、一体これからどういう家庭づくりをしていったらいいのか、という将来の自分達の問題にもなってきます。あるいは、よく言われているように、西洋の家庭と日本とはかなり違うんです。
 戦前は、相互依存というか、大きな家族の中で寄り合って生きていけたのが、終戦以来、ぱしっと切ったように、「あれは古いタイプ、これからは自由な時代だ、個人尊重の時代だ」と変わったわけでしょ。それから50年以上経ってますから、我々の意識の中では個人主義的になってきている。「自己決定が大事だ」とか、「自由が大事だ」とか。ところが、決してとは言わないが、欧米人のような自主性というのはちょっと日本には育たんのではないか、という風に思っています。しかし意識だけは個人主義が大事や、自由が大事やと言ってる。けど、意識で考えているところと、何百年という歴史の中で培われた、色んな者が寄り合い甘えあい支えあってきた日本の社会は、そう簡単に無くならないわけです。それは意識の表面に浮かび上がってこないから、その辺りを掘り込んでいかないと、本当の解決にはならんという、難しい問題があるんです。
 だから、こういう家族問題、家族社会学、家族福祉、家族療法など、色々西洋から入ってきますけど、そういう書物をそのまま翻訳して日本に当てはめていっても、必ずしもうまくいかない面もあります。意外に問題の根は深い。そういう一般を挙げていくと、社会評論的な話になって、それはそれで面白いんですが、ここはそういう場ではありません。ちょっと実践的な課題からスタートしている訳ですから、これをしながら問題をとらえていく必要があるだろうと、私は思っています。

 それともう一つは、細かく見ていきますと、西洋の文化文明とは違うし、東洋といっても、インドを地盤とする・・仏教もその中に入れていいと思いますが、インド文化。それから中国大陸を中心とした漢文・儒教を中心とする文化圏。これは中国・朝鮮半島・日本が含まれています。またこれとはちょっと違うのが、最近問題となっているアフリカですね。
 簡単に家庭・家族コミュニケーションと言ってみても、だいぶ違う面がある。その違いを、良い悪いは別として、はっきり意識する必要があるんじゃないか、ということは最近の傾向でもありますし、これからもますます大事じゃないかと思います。
 それで、東アジアに焦点を絞っていきますと、中国人・韓国人の意識と日本人とはだいぶ違いますね。それも具体的に例を挙げることもできます。だからその中で、どこがどう違って、我々の国ではどう問題になってきているのか、今晩、また次回にも深めていこうと思います。

 危機的状況でも壊れない個人や家庭

 引きこもりということに焦点を絞っても、例えば小中高生の引きこもりと、大学を出てしまって就職・結婚の時期になってる人の閉じこもりと、年寄りが閉じこもっているのと、ちょっと十羽一絡げにはできない。だから、具体的にどういう家庭の、どういう発達年代のことを言っているのか、まだ何も分かっていないですね。それは混ぜて考える訳ではいかないと思います。それから、男性の閉じこもりと女性とはまた違うんではないか、という問題もあります。だから今晩のところでは、色んな角度から考えんならんなー、というところを深めてもらったらいいと思います。

 それから、ちょっと言われてちょっと閉じこもってる、というのと、長期化してかなり深刻な閉じこもりもありますから、これも簡単にいかない。専門家が総動員してかかってもどうにもならないような閉じこもりもあれば、ちょっとした配慮によって救われる場合もありますから、どこでどうなってくるのか考えなくてはならないと思います。
 そこまでのところはどうでしょうか。

―― 先ほど言われた、傷ついたり、何気なく傷つけたりと。傷つかない方がいいような気もするんですが、どの道 社会に出たら傷つくに決まっている。そうすると、傷ついてもいいような、そういう人間関係にまでする。私も神経質なところがあったんですが、色々傷つけてくれた方があって、何とか色々なご縁で、傷ついたことが多少は強さにつながっている気がするんですね。
 以前コラムに書いたんですけど、メロンみたいになればいい、と。メロンというのは、大きくなるにつれて皮が割れるんです。割れても、そこに充填剤のようなものが自然に出てくる。ですから、メロンのネットというのは傷の跡なんだけど、そのおかげで逆に強くなっているんです。そんなイメージがあって、おそらく昔の家庭はそれがうまく機能したのかな。しかしパカンと割れちゃってる家庭というのを見ることがありますので、充填ができないままで割れてしまったり、補填が追いつかないところまで来てるんでしょうか。
 傷つけあいながらもネットで結ばれるという、そういうイメージがあるんですが。今、「甘えながら」と聞いて、かつては上手く充填するような甘えがあったのかな、ということをイメージします。

 すごく大事なところを仰ったと思うけど、図らずも傷つけてしまうとか、相手に悪意はなくても人の言葉で傷つけられたという体験。そこでびくびくしていては生きていけないじゃないか。それはもう人間死ぬ最後まで、そういう意味では、人を傷つけないでいることはできないし、自分も傷つけられる。それが人間なのだと。基本的なところでのおさえは一度した方がいいんじゃないかと。その上で、傷つけられても、受け止め方によっては、傷つけられたことが今度はプラスにはたらいて、自分を強くするということもあるでしょう。
 メロンで譬えて下さったけど、そういう形で、傷ついて、ひとつの危機なのに、その危機を乗り切ると「危機は好機だ」という言葉がありますが、危機的状況に個人にしても家族にしてもなったときに、それでどうしようもなく壊れてしまう個人・家族もあれば、それを機会に段々強くなり、しなやかになり、成長していくような個人のパーソナリティーもあれば家族もある。その辺のところがポイントじゃないかな、ということは色んな体験から大体納得している。これしかないんじゃないかな、ということを仰ったんですが、どうでしょう。

―― そうだと思うんですけど、やはりそこに充填する人が居ないとダメだと思います。どのように存在しなければならないか、ということが、私にはピンとこないんですが。

 一つは自分の問題として、そういう傷つけられ、傷つけていくような生き方。自分はびくびくしないで、プラスに変えていく生き方を、自分の問題として色々な体験から「ここまで私は来ていますよ」と。すごく大事な体験なんだと思います。基本的に私もそう思います。もうひとつは、私の問題じゃなくして、目の前に傷ついている人が居るわけ。傷つけられて。そういう個人や家族に対して、援助者として私はどう関わっていくのか、と。その問題はちょっと違う。関係するけどね。
 仰ったように、普通だとパンパンパンと、人生経験を経た人とかね、大人とか年寄りは、自分で納得できないような言動があった時には、若い人をパンパンと切ってしまう訳ですね。そういう形でいいのかどうか、という問題があります。

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平成15年度 名古屋西別院仏青勉強会 年間テーマ:『心の扉を開く』


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