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【十界モニター】

家柄に込められた先祖の真心

― 「家」の文化を枯渇させないで ―

 「家柄」の本来の意味

家柄[いえがら]より芋茎[いもがら]」という[ことわざ]がある。<家柄などなくても、いま裕福な暮らしをしているほうがよいとうこと>(故事ことわざ辞典/学研)という程の薄っぺらい意味だが、「家柄」も「芋茎」も現在は余り使われない言葉となってしまった。「芋茎」はサトイモの茎で「ずいき」のこと、これは辞書で調べれば分かる。しかし「家柄」は辞書で調べるだけでは解らない深い意味を持っている。
 広辞苑で「家柄」を引くと、<家の格式。家格。また、それのよい家。名家。「―が良い」>とある。また世間一般(衆生世間)で「家柄」を言う時は、家の地位や格式を言い、自慢したり卑下したりと尊卑・上下がからみがちだ。そのため容易に差別思想と結びつくので余り用いなくなったのだろうか。
 しかし私は、現状を「言葉狩り状態」とまでは批判しないが、もっと「家柄」の本来の意味をたずねてほしいと願っている。なぜなら家柄は、現代社会の諸問題にも直結しているし、「在家仏教」を語る際には外せない命題だからだ。

 特に被差別部落の問題では、個人としての差別以上に、代々続く家系や家柄に対する蔑みが最も嘆かわしいのである。これは同朋研修会等で当事者が述べてみえるように、県の特産品に選ばれるような仕事をしていても、その仕事を家柄ごと差別されることが不条理なのだ。同和問題は家系や家柄全部の名誉回復によってしか真の解決はありえない。現在世に生きる人々はもちろん、過去世・未来世も含めた三世一切の人々全てが尊まれてこその解決。本来は「尊し」と拝むべき自らの家柄が[いわ]れ無き[さげす]みの対象となっていることが許せないのである。

 家柄が人柄に反映

「柄」とは、人や物の性質・品位をいう。文字などではっきりとは言い表せないが、どことなく漂う性質や品格のことである。これを地方や国全体に広げれば「国柄」となる。人の品格を表す「人柄」はまだよく使われる言葉だが、これは、履歴書に書くようなデジタルな情報ではないが直接会ってみれば匂いのように漂ってくるものだ。業の積み重ねの歴史がその身に報いて備わるものが人柄で、浄らかな真心の業の積み重ねである人柄は人徳とも言われ、諸仏の人徳は仏徳と称えられる。これは「身放の光明」とも「色光」ともいわれ、あえて形にすると後光となる。特に阿弥陀如来の背にある船形後光は、真実の願心と浄業が身に報い真実報身となった仏徳を象徴している。この仏徳があるゆえに私たちは如来に親しみを覚えるのだ。
(参照:{光明無量の願}
 比べて、他人を見下げ冷酷な業を重ねているような人は、その業が身に報いて冷酷な雰囲気になり、その人柄に触れた相手は心に冷たい隙間風が吹くのを覚え、「二度とこの人に会いたくない」と敬遠するようになる。それほど人柄の問題は重要なのである。

 ところで、この人柄はどこから生まれてくるのだろう。
 人間は自らを創造しつつ環境を創造する、そして創造された環境はまた人間を育てる土壌となる。こうした環境の徳を土徳という。この人間を育む土徳の基本は「家」である。特に幼少から青年期にかけては、家庭環境によって人格・人柄の基礎が創られる。この家庭環境の土徳こそ家柄と言われるものだ。つまり家柄が人柄に反映され、家の歴史を背負った個人が社会に出て活躍し、それがまた家柄に深みを与えてゆくのだ。
(参照:{聞名生貴の願}

 しかしこの家柄というものが現代社会では力を失いつつある。言葉が使われなくなればやがて実体にも影響するだろう。家柄の持つ特質や持ち味は家の歴史が継続し積み重なってできたものだが、こうした個々の文化がマスメディアによって「一億総白痴化」され、食文化もコンビニやスーパーによって没個性化されてしまった。
 またかつては家訓を持つ家も多かったが今は死語になりつつある。家訓やそれに代わる何かバックボーンを持たない個人は根無し草で、軽やかで自由だが社会を支える幹には成り得ない。この成り得ないはずの人間が現実社会で幹の役割を担ってしまっているため、責務の重さに耐え切れず、不正や汚職が絶えないし、貫かねばならない原則もどんどん捻じ曲がっていく。頑として不正に手を染めず、平和を護り抜く信念は、生まれ育った家や環境の土徳によって育まれてゆくのだ。

 代々受け継がれた羅針盤

 こうした家の力が無視され続けて数十年、おかげで特徴の無い家庭が増えてしまった。特徴の無い家庭に育てば癖のない無色透明の人間ができあがってしまう。特徴のない人間は身体の芯に自らの羅針盤を持たぬゆえ、周りに流され、長い物に巻かれろ式の人間になりがちだ。右向け右の号令に従う人間がいくら集まっても新しい文化は生み出せない。マスコミのやらせや嘘に流され、派手な政治パフォーマンスに踊る人間が増えるだけだ。これでは国の礎も危ういと言えよう。
 宗教界も本来は「一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ。(蓮如上人御一代記聞書121)」と、個々の自覚を促していたはずだが、現在では多くの組織が「人のおほくあつまり、威のおおきなること」を最重要課題と掲げ、権勢を誇る体質に堕落してしまった。つまり、宗教界でさえ本物の人間を育て上げる土壌が痩せてしまっているのだ。

 現在、日本文化の大半は会社や組織に吸収されている。経済界では、幾多の経済的危機を乗り越え生き残った会社は無数のノウハウを持ち、海外での活動も含め、体質としても情報収集能力としても強化されている。また政治の世界では政党が圧倒的な力を持ち、選挙になれば人柄より党の推薦が決め手になってしまう。しかしこれらの組織にしても本当に重要なのは人材だ。人材は人間的な魅力であり、これを熟成させるのが家庭であり家柄なのである。この家柄が力を失いつつある現状に私は危機感を抱くのだ。
 家の歴史を背負わず、人間を育む土壌を枯渇させては、いずれ会社や組織にも影響し、国の総合的な地盤沈下は避けられないだろう。災害や疫病に強く平和で豊かな国を創るためには、こうした地盤沈下は解決しなければならない問題だ。

 以上のように、国や世界を下支えしているのは家庭環境であることを再認識しなければならない。そして、歴史を背負った自分の家柄が現在どのような状態にあるか、ということには細心の注意を払う必要があるだろう。その具体的な内容は、以前{「先祖供養はしません」の間違い }に書いたように、先祖供養が基礎となることは明らかだ。そして先祖代々貫かれた菩提心を私の底力とし、足元を固めつつ新たな地平を目指す羅針盤として大切にしてゆきたい。

[Shinsui]

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