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【仏教モニター】

「先祖供養はしません」の間違い

真実信心より供養させていただく

 真実信心より供養させていただく

「木を見て森を見ず」の譬えにあるように、一部の言葉にとらわれて全体が見えない人がいます。全体が見えないと、極端な説に執われてそこから抜けられなくなってしまうことがあります。これは浄土真宗も例外ではなく、特に「浄土真宗では先祖供養はしない」という邪説には気をつけなくてはなりません。
 結論からいいますと、真実信心のおかげで正定聚・不退転となった菩薩は、本当の意味で先祖供養を行なえるのです。逆に信心の華が開いていない不定聚・邪定聚の菩薩は、真の先祖供養ができません。浄土真宗こそ本当の先祖供養が行なえる道なのであり、先祖供養が行なえない人は、まだ浄土の真実を知らない人でありましょう。
 なぜなら、阿弥陀仏の浄土は真実報土を明らかにしたものであり、法蔵菩薩(深く歴史を貫く真心・金剛の道心)が先祖一切の胸を通り、仏性を社会環境として展開し報いてきた身体だからです。先祖一切の血と汗と涙がこもった尊い環境が、土徳となって今の私を育ててくださるのです。

 具体的に言えば、歴史的な無明・煩悩の業を見、我が胸の中で、それを歎きつつ一切を浄化し荘厳に導く仏性・菩提心の浄業を尊めば、現在・過去・未来の三世一切の諸仏と私が出遇うことができるのです。過去世の諸仏こそ先祖であり、私は身をかがめ、先祖の深きに宿る仏性とその報いとしての国土から道を聞き開いてゆくことができます。
 そして目の前の人々を諸仏と拝み、未来の衆生も諸仏と拝むところに、「前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ、連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す」(『安楽集』3)の深意が適うのです。こうした場に三世一切の感動が響き渡る世界(極楽)が働きを展開するのです。
 さらに私は、聞き開いた道を参考に、わが刹土を真実報土荘厳の働き場とし、創造性あふれる国土に仕上げていくことができます。
 このように、阿弥陀仏の徳を称[たた]える(称名念仏)ことの中にこそ、先祖供養も円成しているといえるのです。

 こうした供養の反対の行為を殺生といいます。これは相手を無視することをいいます。先祖代々の真心を殺し、目の前の人の言葉をはねのけ、未来の人々の存在を無視する。これによって人々は社会からも歴史からも孤立し、あらゆる幸せを遠ざけてしまいます。こうした感動(楽)の無い世界を奈落とも地獄ともいいます。殺生は地獄を生み出す基礎工事なのです。

参照:
{供養諸仏の願}
{供養如意の願}
{仏教における「親孝行」の定義}
{浄土理解の相違点}
{葬式でお経を読むのは死んだ人の供養のため?}
{「供養」について}

[Shinsui]


 聖典等資料

弥勒、まさに知るべし。かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑなり。その胎生のものはみな智慧なし。五百歳のなかにおいてつねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・もろもろの声聞の衆を見ず、仏を供養するによしなし。菩薩の法式を知らず、功徳を修習することを得ず。まさに知るべし、この人は宿世のとき、智慧あることなくして疑惑せしが致すところなり」と。

『仏説無量寿経』44 巻下 正宗分 釈迦指勧 胎化得失

意訳▼(現代語版 より)
 弥勒よ、よく知るがよい。化生のものは智慧がすぐれているが、胎生のものは智慧が劣っていて、五百年の間まったく無量寿仏を見たてまつらず、教えを聞かず、菩薩や声聞たちを見ず、また他の仏を供養することもできない。菩薩の自利利他の修行ができず、功徳を積むことができない。よく知るがよい。これらのものは、過去世において智慧がなく、仏の智慧を疑ったからにほかならない」

 そのとき世尊、韋提希に告げたまはく、「なんぢ、いま知れりやいなや。阿弥陀仏、ここを去ること遠からず。なんぢ、まさに繋念して、あきらかにかの国の浄業成じたまへるひとを観ずべし。われいまなんぢがために広くもろもろの譬へを説き、また未来世の一切凡夫の、浄業を修せんと欲はんものをして西方極楽国土に生ずることを得しめん。  かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし。一つには父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。二つには三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯さず。三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。かくのごときの三事を名づけて浄業とす」と。仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」と。

『仏説観無量寿経』7 序分 発起序 散善顕行縁

意訳▼(現代語版 より)
 そこで釈尊は韋提希に仰せになった。
 「そなたは知っているだろうか。阿弥陀仏はこの世界からそれほど遠くないところにおいでになるのである。だからそなたは思いを極楽世界にかけ、清らかな行を完成して仏になられた阿弥陀仏をはっきりと想い描くがよい。わたしは今、そなたのために極楽世界のすがたを想い描くためのいろいろな方法を説き、また清らかな行を修めたいと願う未来のすべての人々を西方の極楽世界に生れさせよう。その世界に生れたいと願うものは、次の三種の善い行いを修めるがよい。
 一つには、親孝行をし、師や年長の者に仕え、やさしい心を持ってむやみに生きものを殺さず、十善を修めること。
 二つには、仏・法・僧の三宝に帰依し、いろいろな戒めを守り、行いを正しくすること。
 三つには、さとりを求める心を起し、深く因果の道理を信じ、大乗の経典を口にとなえて、他の人々にそれを教え勧めること。
 このような三種を清らかな行いというのである」
 釈尊は続けて仰せになる。
 「韋提希よ、そなたは知っているだろうか。この三種の行いは、過去・現在・未来のすべての仏がたがなさる清らかな行いであり、さとりを得る正しい因なのである」


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