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【本・映画等の紹介、評論】

犯罪被害者支援とは何か

― 付属池田小事件の遺族と支援者による共同発信 ―

酒井肇・酒井智惠・池埜聡・倉石哲也/ミネルヴァ書房

ようやく始まった犯罪被害者支援

 2001年6月8日、大阪教育大学付属池田小学校で起こった児童殺傷事件(犯人:宅間守、死者8名 負傷者15名)で、長女麻希さんを亡くされた酒井肇・酒井智惠さん。このご夫妻の体験を中心に、犯罪被害者支援の具体的なありかたを提案したのがこの書である。
 今まで私達が漠然と受け入れていた常識が、被害者にとっては極めて劣悪な状況となり二次被害をもたらす、という事実に耳を傾けたい。

 二次被害について

 二次被害については、まずはマスコミの取材攻勢に苦言が呈される。たとえば、事件を聞いて駆けつけた父母らに「何か一言おっしゃってください」とマイクを向ける態度。救命活動を阻害した多数の取材ヘリ(このことは阪神淡路大震災の時も指摘されていた)。通夜や葬儀等でみせた凄まじい取材攻勢。<現場や病院に怒涛のごとく押し寄せ、否応なしにカメラを回し、シャッターを切り、マイクを突きつけ>るような態度が、いかに被害者の身心を傷つけるか、相手の立場に立てば少しは想像がついたはずである。

 また警察に対しては、法律的な問題もあるが、司法解剖の原則も二次被害となることを示す。既に何度も切られている身体に、実験室のようなところで更に遺体を切り刻まれるという状況は、遺族としてはとても受け入れられないことだろう。遺体の尊厳ということに思い至って考え直してみることが提案されている。

 さらに、「心のケア」ということでカウンセリングを受けた時、精神科医の一方的な片付け仕事のような診察を受けて、逆に気分が落ち込んでしまったことも語られる。

 そして忘れてはならないのが小学校側の態度。事件が起こってから自宅に何の連絡もなく、葬儀が終わってからようやく校長一人が弔問に訪れたが、事件の経過や今後の対応については一切報告がなかった、ということである。結局、被害者に対する正式な報告は5ヶ月も後となった。このような後手後手に回った対応は、被害者の焦燥をあおる結果となったことは言うまでもない。

 総合的には、被害者バッシングによって孤立感を深めると回復が困難になる、ということ。たとえば「被害者なのになぜ笑っていられるの?」という風評が起きるように、<犯罪被害者にとって、普通に生活していることが、もはや「普通ではない」と受け取られてしまう>という、犯罪被害者対するステレオタイプの見方が遺族を苦しめる結果になる。これは、<被害者のなかに落ち度を見つける態度>に象徴されているという。

 支援の実際

 この書の主眼は、犯罪被害者の支援についての留意点であり、この具体例がこと細かに記されている。

 まず初期の段階では、被害者は混乱期にあり、現実感が薄れているため、家族の生活を支えることから始めていくことを勧めている。<「何でもしますから言ってください」というアプローチはあまり有益ではなく、かえって被害者の重荷になる可能性がある>というように、「私にできることはやりましょう」と、具体的な支援を積極的に申し出る誠実さが必要だという。
 たとえば、病院から家に帰ったとき、同行した婦警さんたちが表に干してあった洗濯物を取り込んでくれたというような、具体的な支援が本当に手助けになった、また、葬儀会社のこと細かな支援も大きいものだった、という。仕事で当たり前のことのようであるが、具体的な支援の大切さが想像できる。
  このように、<混乱期では、「心のケア」だけに目を奪われるのではなく、「生活」を支える現実的で具体的な支援も積極的に取り入れる>ことが重要であると述べている。

 この後、裁判や、校舎建て替え問題などでさらに心に痛手を負うことになるのだが、混乱期を過ぎても、家族を失った悲しみは容易には癒されず、周囲から不適切な対応を受けると、二次被害者化、三次被害者化してしまう可能性が大きいという。これを防ぐためには、支援者が<相手の立場に立つこと>であり、<この姿勢は、同情とは根本的に異なる>という。同情は、自己の感情を被害者に投影しているだけであり、支援とは、相手の立場に立ち、共感し、寄り添っていくこと。被害者は弱者ではなく、一人ひとりが尊厳を有する自律した人間であることを忘れてはならないのだろう。
 また支援者の基本的態度として、<自分の心理状態を常に吟味し、自らを偽って過剰な責任を引き受けたり、無理をして支援に携わることは避けなければならない>という。

 なお、この書の「期待する読者」として、被害者やボランティア・スタッフ、支援の専門家、医師、検察、マスコミ関係者、様々な研究者など、幅広い層を挙げているが、本当は僧侶はじめ宗教者も一度は目を通しておくべきだろう。
 宗教が、学問の分野に留まるのではなく、具体的な「人間支援」を通して発展していくことを心がけなければ、教学が絵に書いた餅になってしまうだろう。特に「相手の立場に立つ」ということは、{神足如意の願} を引くまでもなく、日常の基本的心得として持しておきたいものである。

[Shinsui]


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