ご本願を味わう 第九願

神足如意の願

【浄土真宗の教え】
漢文
設我得仏国中人天不得神足於一念頃下至不能超過百千億那由他諸仏国者不取正覚
浄土真宗聖典(注釈版)
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、神足を得ずして、一念のあひだにおいて、下、百千億那由他の諸仏の国を超過することあたはざるに至らば、正覚を取らじ。
現代語版
 わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が神足通を得ず、またたく間に数限りない仏がたの国々を飛びめぐることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

 世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもが皆、たとえ心のほんの一刹那の中にでも、百千億・百万の仏国土を飛び越えて行く(神足通)ということによってでも神通自在の最高の完成に達しないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より

  私の目覚めた眼の世界では、人びとが住む境遇をえらんで、都合の良い場所にしか住まないなどということはない。もしそういうことがあれば、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より

 諸師がたの味わい

成就文には「一食の間に、十方の無量の世界に至って、諸仏世尊を恭敬し供養する」といい、『阿弥陀経』には「食時を以て、他方の十万億の仏を供養する」とありますから、諸仏を供養するための足のようです。・・・天親菩薩は「一念に遍く至る」。それも「動かずして至る」と、ご自分の領解を述べておられます。ですからこれは、体が実際に行くのではなく、心に一切の諸仏を念ずることでしょう。大体「神通」ということが、精神が通う、まごころが通ずることをいうのですが、「神通応化」といわれているように、相手の身になる、相手と一つになる、西田幾太郎博士のいわれる「ものになりきる」ことですから、ここでは相手の身になって、相手と自分が一つになり、そして相手を超え、自分を超え、相手と自分を大きく包み込んで立ち上がって行く、そういう足のことでしょう。
<中略>
仏教では相手の人格を無視することを「殺生」といいますが、地獄行きと極楽行きの分かれ道は、殺生すれば地獄行き、供養すれば極楽へ行くといわれています。「百千億ナユタの諸仏を供養する」とは、私たちが平生使っている言葉でいえば、「ご先祖さま、私のすることを見ておって下さい」ということでしょう。
<中略>
『阿弥陀経』には「これより西方、十万億の仏土を過ぎて」弥陀の浄土があると説いています。これは十万億の一つ一つの仏を供養し、それによって一一の仏からお育てに預かってゆくことですから、ここでも「百千万億ナユタの諸仏の国」を過ぎて、諸仏を供養し、相手から自分も教えられてゆく、自利利他の菩薩行を行じながら、しかも自己を超え、相手を超えて、弥陀の国への旅を続けてゆく、いわば諸仏の国の視察旅行ではないでしょうか。
<中略>
自分の立場からものを見、また相手の立場から見、自分と相手を超えて、より高次な共通の広場に立って、世界史の立場、さらにそれを超え、弥陀の浄土に立ってものが見えるような、そういう無碍自在な足のことだろうと思います。

島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より

 「数かぎりない国国を飛びめぐる」ようにという「如来の願い」は、精神の活動範囲の広がりによって実現するのです。私はこの第九の「神足通」の願は、小さなことに固執したり、一つのことに執わてて足を失い、動かなくなる精神に足をつけて、精神の活動範囲を広げ、文字通り「数かぎりない国々を飛びめぐる」ようにしてやろうという願いであると頂くのです。
 私たちの精神の足は、他人の態度や言葉を気にしすぎることによって縮んでしまいます。失敗を恐れ、間違いを恐れ、常にいい人だといわれるような人間でいたい。他人からとやかく言われたくない。他人に冷たくされたくない。あれやこれや考えるうちに精神の足は萎え、他人の態度や言葉に引きずりまわされて、忙しい忙しいで人生を終ってしまうのが私たちです。そんな私たちに、精神の足を与え、この天地を本当の意味で飛びめぐる生き方を与えてやろうというのが、この第九の願であります。

藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より

 一念の間にとありますから、一念の信というものを起こして、信楽受持するにいたるということは、念即生といいますか、凡夫念じてさとるなりで、一念帰命するというだけで凡夫が一躍して仏になる、どんな境遇をも飛び越えて仏になるということはなかなか難儀なことでありますが、その難儀なことをたとえて言うならば沢山な国も、数限りのない国も一念の間に飛び越えることができるように、一念帰命の信ということによって成仏し、助かる身の上になるようにさせてやりたい、例えて言えば神足通を得たようなものである、ということが第九の神足通の願というものです。丁度身が神足を得たように、心があらゆる国を飛び越えて一念帰命するようにならしめたいということであります。難儀もそれほど難儀なことはない、ということであるが、信楽受持するにいたるという幸せをえさせねばおかんということでありますが、信の人はそういう神足通をいただいたことになるのだ。その力をいただいたということは喜ぶべきことであるということが、この願でわかると思うのであります。

蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より

神通は智慧でありますから、前の四つの知識によって、今度は自分の行動を自由にすることができる。心にはわかっていても、わかった通りの行動をとることができなければ、これほど不自由なことはない。だから神足通は天眼・天耳・他心という通力より得たその知識によって行動をとることである。自分がおこないをとるにおいてきわめて自由であるということが、この神足通というものではないでしょうか。
 こういうふうに見ていきますと、この五つの通力の本願は、第三・第四の本願が外から与えられる幸福であるのに対して、内部に満たされる幸福を与える本願であろう。こういうふうに思われるのであります。

金子大榮著『四十八願講義』 より

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