平成アーカイブス  <旧コラムや本・映画の感想など>

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【本・映画等の紹介、評論】

四コマ哲学教室

南部ヤスヒロ+相原コージ/イースト・プレス

 哲学というと一般には難解なイメージがあり、実際書物に触れてみると予想以上に難解だったりする。大抵は用語や日本語訳が不親切なことが原因だが、学問不足の素人に俺たちの深遠な思想が解ってたまるか≠ニ、わざと難解語を用いる面は否めない。誰とは言わぬが、難しい内容を簡潔に表現する人は少なく、簡単な内容をあえて難解に表現する人は多い。どこの世界でも専門家根性丸出しの嫌味な優等生は沢山いるのだ。
 ただ少し彼らを弁護するとすれば、各思想には哲学者本人の心の葛藤が底流しているのだが、直接的な表現は生々し過ぎてできず、それでも読者は著者本人の体験が見えてこないと真意が解らない、という矛盾した面はあるのだ。

 世界一解りやすい哲学入門書

 哲学を難解にしている大きな要因がさらにある。それは――<すべての著作の或る意味での唯一の欠点は長すぎることである>と、ヴォーヴナルグが指摘した通りの問題である。哲学書も内容を短くまとめて書くべきである≠ニ、このHPの文字数の多さは棚に挙げて私は提案したい。
 そんな私の願いが聞き届けられ(……この認識も哲学的素材となり得る)『四コマ哲学教室』が出版された。おそらく世界一解りやすい哲学入門書であろう。著者の南部ヤスヒロは相原コージ作品との出遇いを、プロローグにおいて以下のように述べている。

 ……この本では、主に相原コージさんの4コマ漫画を使わせていただき、なるべく身近な話題からテツガクしていくというアプローチをとりました。
<中略>
 はじめてこの作品、『漫歌』・生きる意味シリーズを漫画アクション(双葉社)で目にした西暦2000年の春、私の身体に電流が走るほど衝撃を受けました。今でもあのときの本屋さんでの立ち読みが、印象深く思い出されます。<中略> 哲学の入り口として、こんなにいい素材は二つとありません。
「浩」と「ブタ公」の旅につきあっていくうちに、すんなりといろんな哲学がわかった気になっちゃう――本書ではそれを目指しています。さらに本格的に哲学したい方は、専門書へと向ってください。この本がその橋渡しになればいいなと思っています。
[はじめに――さあ、哲学(テツガク)を始めよう!]より

「浩」は<俺は何のために生きているのか?>という問いをもって家を出た。すると「ブタ公」は<俺は食われるために生きているよ>とあっさり答える。そして浩の持っているパンを一つ食べてしまう。浩はそれでは納得できず様々に質問するが、ブタ公はそれらをことごとく粉砕していく。
 また浩は安易に、<俺は「真理」を知るために生きているのだ>とか<死ぬために生きている>、<幸せになるために生きている>、<神様に生かされている>、<より良い者に生まれ変わるため>、<本当の自分を見つけるため>、<やりたいことをやるため>、<自由になるため>等と答えを出すが、これらもことごとくブタ公に粉砕されてゆく。
 彼らは一見、{ブッタとシッタカブッタ}的な関係に見えるが、ブタ公はブッタよりシニカルな面を多く持っている。しかも後半はあっと驚く弁証法的な展開が待ち受けていて、先にブタ公の言った<俺は食われるために生きているよ>という言葉をついに乗り越えてゆく。
 おお感動!!
 哲学を身近に感じるにはこれ以上の本はないだろう。

 哲学そのものに潜む危険

 哲学は人間の知的探求心を発露させ、深い思惟を誘発せしむるものであるため、一般には高尚で善良なものと思われているが、実は非常に危険な道具ともなり得るものである。
 その第一には、思索の切り口によってその側面のみに執着する可能性があることが挙げられる。仏教的に言えば哲学は全て自力の範疇に留まる≠フである。自力は他力の一表面であり、仮説に過ぎない。仮説に執着することを洗脳と呼ぶのだ。
 第二には、その思想を説いた人間の人生観や人間性が問われず内容のみを問うのは危険であることを挙げたい。人間は生きてきた人生そのものから思索の根を得る。それは生まれてからの記憶のみならず、住んでいる場所や民族の永年の記憶(蔵識)がその人の性格や人生観を決める面が多々あり、いくら普遍的な思索を目指しても個人の癖は消せない。そのため読者が思想に共鳴すれば、説いた人の人生観や性格を引きずってしまうのだ。哲学者が全て善き人格者である訳ではない。むしろ極端な性格を持つ人の方が多い程だから、同調していると人格が破綻する場合があるので注意が必要だ。

 この本の内容で具体的に言えば、「幸せは絶対的価値ではなく、相対的な価値にすぎない」とか、「本当の自分なんてものはないよ」という考えも、一側面では適応しているが絶対ではない。単なる仮説であることは自明の理であろう。他人と比較した幸せもあれば、比較しない幸せもある。逃避的に言った「本当の自分」は確かにないが、自分を割り開いて主体的な我を見出すことは可能である。
 さらに「社会なんて共同幻想だよ」という吉本隆明の提唱した概念が最後に載っているが、この悪思想こそ戦後日本人の精神構造を破壊してしまった元凶である。戦後の日本人が社会的責任を負わず、国家に寄生し個人主義と拝金主義に走った、その原動力がこの思想である。いくら敗戦国といえど、社会を共同幻想であると断定したら国家の再建は不可能となる。実際、今の日本はとても独立した国家とはいえまい。首に縄がかかった状態の国家の足を、思い切り引いた思想家の一人が吉本隆明である。
 人間は社会なくしては存在しない。それは生まれたての赤子の首が据わっていないことを見ても明らかで、人は生れた段階で既に社会を背負い、細胞に国を内包している≠ニ言えるのだ。もし社会が共同幻想ならば、私は幻想から生まれた存在ということになってしまう。『仏説無量寿経』では、普遍的な仏国土に学んだ菩薩が、独立して自らの国土を建設することを提唱している。
(参照:{自然と社会と仏教の関係}{浄土理解の相違点}
 このように、一側面である哲学に偏ることは、いわば自主的な洗脳であり、人生の破壊につながる。しかし、自分の人生観を確立していく過程において参考にするのであれば、哲学は非常によい材料となるだろう。執着はせず、現状打破の一助としてのみ哲学を利用することをお勧めする。

[Shinsui]


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