平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
[index]    [top]
【仏教QandA】

自然と社会と仏教の関係

― 肉体にも現われた浄土の願い ―

質問:

自然

「自然崇拝と仏教」を読ませていただきました。

「自然の流れ」というのは、「自然の法則」ということもできるというのが、「自然な考え方」ではないのではないでしょうか?

返答

 ご質問いただきました通り、おそらく多くの日本人が「自然[しぜん]の法則」と「仏教」をほとんど同一に見ていることと思います。そして「仏教は実に自然[しぜん]な教えだ」ということを魅力として感じてみえる方も多いでしょう。
 しかしこれには問題が多いのです。仏教でいう「自然[じねん]」は、「天然」とか「野生」とか「無為自然[むいしぜん]」と無関係ではありませんが、ここに留まってしまっては、せっかく釈尊はじめ諸仏・諸菩薩がたが命がけで求め説いてきたことを台無しにしてしまいます。特に「主体的・能動的に生きる」という仏教の徳目が、「自然」の誤用によって消されないよう気をつけなければならないでしょう。
 そこで以下、「自然[じねん]」と、他宗教や科学でいう「天然・自然[しぜん]」との違いを明らかにしておきたいと思います。

 人は生れた段階で既に社会を背負っている

 最初から仏教用語を並べると興味を失う方がみえると思いますので、皆さんがよく知っている事実から「自然」と「社会」の関係についてお話させていただきます。

 まず、人間の存在自体について考えてみましょう。
 人間と動物の違いは、二本足で歩いたり道具の使用を特徴に挙げる人もいますが、これらはまだ本質ではありません。最大の特徴は出生時に現われます。
 母胎からオギャーと生れてきた赤ん坊を見てみると、他の生物とは明らかに違う点があります。それは首が据わっていない点です。寝返りもうてない状態で、母乳を飲むのも自分では動けず、親が慎重に頭を支えてようやく口に含ませることができます。そして這うまでに半年以上、立つまでには1年前後の期間が必要です。これは一体何を意味しているのでしょう。

 例えば海がめは、卵から[かえ]ったらすぐに手足をばたつかせて海に向かいます。海がめは自然[しぜん]の中で一人で生きていく力を与えられて生れてくるのです。それでも歩くのが遅かったり方向を間違えれば、すぐに鳥など捕食者の餌食になります。海にたどりついても生存競争は過酷で、親になれるのは千匹に一匹くらいなのだそうです。
 哺乳類はもっと生存率が高いようですが、これは親が必死で子を守るからでしょう。ただし、馬でも狼でも大抵生れたその日のうちに歩けるようになります。人間に近いとされる猿でも、首が据わっていないまま生れてはきません。野生で生き残るためには、親に負担をかけないようにある程度の力を得てから生れてくるのです。それは、自然というものが苛酷な環境であることを肉体が知っているからで、生れた時にはそれだけの力が与えられているのです。

 それに比べて、人間は何と無防備な、親にとことん負担をかける姿で生れてくることでしょう。これほど未熟な状態で出生すれば、海がめのような境遇はもちろん、野生・自然[しぜん]の中ではとても生存・繁栄できません。<子どもは親に守られるが、その親も何かに守られる>という環境が整っていなくては、こういう無防備な赤ん坊は生れてこないのです。
 これは結局、人間というのは、<野生ではなく、平和な社会に育てられることを想定して出生する生物だ>と言えるのではないでしょうか。肉体そのものが既に社会を内包しているのでしょう。
 この社会は、自然の苛酷な環境から生命を守り、首の据わっていない子どもも豊かに育てる環境です。さらに、歴史や文化を伝承し、多くの出会いと生きる術を身につけていく期間をじっくり置いている環境でもあります。このため社会は、自然[しぜん]から影響を受けながらも、弱肉強食の自然[しぜん]の摂理とは別に、社会独自の摂理を持っていて、この摂理がかなり長い期間続いたからこそ肉体にまで影響を与えたのでしょう。ですから、この肉体は人類が能動的に選択してきた形であるともいえるのです。
 だからこそ、自然[しぜん]の法則・摂理もさることながら、社会の摂理を考えることが今の人間にとっては最も重要なのです。社会の本質とは何かを明らかにし、現実に起っている様々な問題点を見つけて、その問題を自らに問うてゆく、そして、自分の居場所を見つけ自分の道を究め、社会に何らかの貢献をしたいと願っているのが人間なのではないでしょうか。こうした内的な欲求も、誰かに吹き込まれたというより、気付いてみたら最初からあった欲求であり、歴史社会が肉体に影響を与えた結果自覚された願いでしょう。私の中に、社会を成り立たせてきた根本精神が宿っているのです。

 社会を作った根本精神

 ちなみに、人間以外にも社会を形成する動物は多くありますが、「利己的な遺伝子」の影響から脱することなく、功利的な社会であり、自然[しぜん]の掟はまだまだ動物の社会では絶対的な位置をしめています。たとえば同族の子殺しは頻繁に起っていますし、親が安心して子育てに専念できるほどの社会環境は獲得していません。弱肉強食の自然[しぜん]の掟に従わされているのが人間以外の動物でしょう。

 人間は、親や家庭が子どもを守り、地域社会が家庭を守り、教育機関が育児を手伝うというように、社会全体が一人一人の子どもを守り育てる環境を形成してきました。これは勿論、各自の利己的な思惑が一致しているという点もあるでしょうが、そればかりではなく、互いに助けあい、敬いあい、安心して一人一人が輝きを発揮してほしい、という「まごころ」が根本にあったからできた社会なのではないでしょうか。

 そういう意味では、本当は動物も根本のところでは「まごころ」があり、この実現を本心のところでは願っているのでしょう。ただ、動物はこの本心を発揮する段階を経ていないため、生態を見ると残酷なことが当たり前のように起っているのです。かつて人間の先祖も、残酷な環境にありながら、自他の残酷さを嘆き悲しんでいたことでしょう。
 この嘆き悲しむ「まごころ」を仏教では仏性といい、「一切衆生悉有仏性」と、生物の本質を明らかにしたのです。人間の社会は野生動物の社会に比べ、仏性が色濃く影響を与えている環境と言えましょう。

 ところが、そうして「まごころ」で作ってきた社会であるはずが、環境を捻じ曲げ、他種族を絶滅に追い込み、人間を支配したり戦争に駆り立ててしまう面も持ってしまいました。自然の支配から逃れるために作ってきた社会が、自然に成り代わって人間を支配してしまうのです。
 これは、人々が社会を成り立たせている根本精神を見失い、我執をのさばらせ、それを理性や主義主張によって凝り固まらせた結果といえるでしょう。これを「五濁悪世」とか「三悪道」といいますが、この問題が自己の生き方に含まれていることを見抜き、仏性のはたらきによって浄めることが解決の第一歩です。
 仏教では社会を「器世間」とよび、このうち仏性のはたらきが報いられ形を表した社会を「如来世間」とか「浄土」とよびます(ただし形そのものが浄土ではありません)。そして浄土のはたらきを見て自ら深く懺悔し、浄土と名号の徳によってあらたな社会を創造することが仏教徒の勤めと示されています。({※資料1▼ 参照} 浄土はどの場にもあり、常に働きを見せますが、仏性が見えない人にはその存在すら疑うことになります。

 仏性が見えた上で、生まれたばかりの無防備な赤ん坊の姿を見ると、<確かにこの子は浄土が存在していることを示している>と思うのです。そして肉体にさえ示された「まごころ」の方向に背き、戦争を繰り返している私たちは何と愚かなのだろうと嘆くのです。
『仏説無量寿経』には「国豊かに民安くして兵戈用ゐることなし」とありますが、兵器が必要でなくなる社会は、既に肉体においては「願い」として結果が出ているといえるでしょう。人間はこの願いの報いを種として受け取りますので、自ら率先しまごころの種を育て、花開かせていくように社会的に生きることが肝心であるといえましょう。

 私達人間は、自然[しぜん]から学ぶことも多いでしょうが、そこに留まらず、人や社会から学び、常に新たな地平を目指す根本精神の自然[じねん]のはたらきを学ぶことが大切でありましょう。
 まごころの歴史は尊く、その果報は常に我が身に成り切ろうとしているのです。そして同時に、まごころに逆行する性質も受け継いでいて、その報いも自他や社会に現われています。ですからまず、まごころの報いでできた浄土(如来世間)と、我執や無明の報いでできた娑婆(衆生世間)の見分けができるかどうかが、人生の謎を解く鍵となるのです。

娑婆の世界はここのこと
極楽の世界もここのこと
これは目の幕切りをいうこと

(浅原才市)

 「自然と一体」を批判

 ここからは少し仏教の歴史に関る問題点を述べてみます。質問と離れるかも知れませんが、関連することですからこの機会にお話したいと思います。

 前節まで述べてきましたように、仏教でいう自然[じねん]は、「真はおのずからその本質を現わす」という意味で使用します。
 たとえば「浄土」であれば、「いままでは努力して浄土に往くと思っていたが、往生を願えば浄土は既に私にはたらいていた」という意味になり、また「真実を求めれば真実はおのずと姿を現わす」といいます。つまり、「真実を求めていたら、やがて真実に遇えた」というのは本当の真実なのではなく、「真実を求める」その願いが私の主体であり、この主体に即して真実が現われるのです。私達が仏願を学ぶ意味もそこにあります。「法」のことを「法身」と言ったり、阿弥陀如来を「報身」と言う場合も同様です。「身」ですから、真実は常に自らを現わそう現わそうと働いているのです。

 そしてここからが重要なのですが、仏教が目指したのは、自然[しぜん]と一体になったり、法悦三昧[ほうえつざんまい]にひたることではなく、一切万物のはたらきを私の求道精神の中に引き受けていくことが肝心なのです。天然・自然というも、社会とか浄土というのも、私一人の問題でありつつ、背後に衆生や社会を抱えているのです。一切衆生の問題が、私の問題として引き受けられ、全てを象徴して今私が立ち上がるのです。

 自然[しぜん]の流れに従い、自然[しぜん]と一体になれば確かに癒されることもあるでしょう。法悦三昧に浸れば悩みが軽減されます。しかし、こんな境涯では人生の問題は何も解決できません。五濁悪世の社会は私の存在そのものを消し去ろうとし、私の我執・無明は、この五濁悪世に流されていていながら立ち上がる機会さえ奪ってしまいます。「自然法爾[じねんほうに]」も、言葉だけなら道教の思想と同じであり、意味を変えないと仏教ではなくなってしまいます。これでは釈尊が批判した「梵我一如[ぼんがいちにょ]」という外道思想と同じで、この迷信に食われてしまっては仏教を聞く意味がありません。以前、{なぜ宗教は平和を妨げるのか} という本の紹介でも批判しましたが、信仰と信心の違いをはっきり理解していない人が多すぎるのです。

 本当の仏教は、あらゆるものの意味や尊厳を、私の求道精神そのものに見ていくのです。一切によって私が打ち破られつつ、私が全てを食い尽くしてゆく。天然・自然[しぜん]の力も、如来の願力自然[じねん]のはたらきも、一切が真剣勝負の場に立って、それら全てのはたらきを引き受けた存在として私が立ち上がるのです。私は一切に背負われつつ、私が一切を背負ってゆく。私が一切に生かされ、そして一切を生かしてゆく。私という存在の謎を解くことが、一切の謎を解くことと同様の意味を持つのです。こうした機法一体の体験が信心の内容なのです。
 親鸞聖人の仰る自然法爾[じねんほうに]はこうした方向において解するべきで、自分の出番を無くす方向に解してはならないでしょう。仏教は能動的に生きることを尊しとする教えなのです。
(参照:{「自然法爾」とはどういう意味ですか?}

 大乗仏教では、自然[しぜん]の法則から学ぶだけの人を「縁覚[えんがく]」といい、教えを聞くだけの消極的な人を「声聞[しょうもん]」(ただし浄土の声聞は別)といいますが、龍樹菩薩はこれら二道に陥った状態を「菩薩の死である」として注意されました。

 人は、自然[しぜん]からのみ学んでいても、いずれは覚ることができます。しかしそれでは覚るまでに命が尽きてしまいます。
 島田幸昭師も仰られてみえましたが、信頼に足る師から教えを聞いて実行すれば、千年かかることも一年で達成できます。先人たちの歩みを無駄にしないために教えがあり浄土があるのです。仏教の歴史の尊さは、一切衆生の生命活動を生かし切る道であり、それは社会の本質である浄土を見抜いて生き切る道なのです。

 聖典等資料

※資料1

〔仏の〕梵声はなほ雷の震ふがごとく、八音は妙なる響きを暢ぶ、
〈まさに菩薩に記を授くべし。いま説かん。なんぢあきらかに聴け。
十方より来れる正士、われことごとくかの願を知れり。
厳浄の土を志求し、受決してまさに仏となるべし。
一切の法は、なほ夢・幻・響きのごとしと覚了すれども、
もろもろの妙なる願を満足して、かならずかくのごときの刹を成ぜん。
法は電・影のごとしと知れども、菩薩の道を究竟し、
もろもろの功徳の本を具して、受決してまさに仏となるべし。
諸法の性は、一切、空無我なりと通達すれども、
もつぱら浄き仏土を求めて、かならずかくのごときの刹を成ぜん〉と。

『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 衆生往生因 往覲偈 27 より

意訳▼(現代語版 より)
仏は雷鳴がとどろくように、すぐれた徳をそなえた声でお述べになる。
「今、ここにいる菩薩たちが未来にさとりを得ることを約束しよう。
これからそのことを説くから、よく聞くがよい。
わたしはさまざまな国から来た菩薩の願をすべて知っている。
菩薩たちは清らかな国をつくりたいと志して、その願の通りに必ず仏になることができる。
すべてのものは夢や幻やこだまのようであるとさとりながらも、さまざまなすばらしい願を満たして、必ずこのような国をつくることができるのである。
すべては、稲妻や幻影のようであると知りながらも、菩薩の道をきわめ尽し、さまざまな功徳を積んで、必ず仏になることができる。
すべてみな、その本性は空・無我であると見とおしながらも、ひたすら清らかな国を求めて、必ずこのような国をつくることができるのである」



[index]    [top]

 当ホームページはリンクフリーであり、他サイトや論文等で引用・利用されることは一向に差し支えありませんが、当方からの転載であることは明記して下さい。
 なおこのページの内容は、以前 [YBA_Tokai](※現在は閉鎖)に掲載していた文章を、自坊の当サイトにアップし直したものです。
浄土の風だより(浄土真宗寺院 広報サイト)