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【特集・コラム・資料】

法名の記号化を憂う

― もっと丁寧に人を見て ―

「尼」という尊い文字が法名から完全に消える前に

 遅ればせながら、どうしても言わざるを得ないことがある。わが本願寺派において女性の法名から「尼」の文字を消す方向性が決定している現状に対してである。
 おそらく男女平等という時流に流され、済し崩し的に法名から男女差をなくし、尼という尊い文字さえ消そうとしているのだろう。果たしてこれが本当に仏意に相応した改革だったのだろうか、と問いたい。

 言葉にできない真心

よしあしの文字をもしらぬひとはみな
まことのこころなりけるを
善悪の字しりがほは
おほそらごとのかたちなり

『正像末和讃』115

 お檀家さんにこの法名をめぐる現状をお伝えしたところ、あるおばあさんが目を丸くして怒られた。
「そんな、男か女かわからないような法名もらって、誰が喜びますか!!」
 そこで私は、「どうして法名を見て男か女かわかる必要がありますか?」と[]いたところ、そのおばあさんは「だって!」と何か必死に言いたげだったが、反論する言葉が見つからず、やがて真っ赤な顔をしながらも黙ってしまわれた。
 私は意地悪で訊いたのではない。実はこのおばあさんの反応こそが在家仏教者として、また人間としての当たり前の反応だということを言いたいのだ。

 反論する言葉が見つからないというのは、反論がないということではない。言葉に出すまでもない真心の常識だったから、その真心に反する理屈や動きに言葉も出ないのである。つまり「開いた口が塞がらない」のである。市井の人たちの方が余程他力を解している。ドラマではないが、事件は現場で起きているのだ。現場を考慮しない人たちが会議室で頭でっかちに大事な物事を決めてもらっては、迷惑するのは血も涙もある現場の人たちである。
 理屈で論争すれば、先のおばあさんのような「言葉に出ない真心」は無視されてしまうだろう。「理由を言え」と言われても、あふれる想いは言葉にしにくいのだ。言葉が出なければ無視するというのは、官僚独断の法律と同じ問題を含んでいる。「高度」な理屈で庶民の当たり前の感情を踏みにじってほしくないのだ。

 尼僧の出現

 問題を2点に集約してみる。まず「尼」の文字の問題。
「尼」は尼僧を肯定した文字であることは言うまでもない。「釋(釈)」は釈尊の法を継ぐ者として、また一生補処の願いを自覚する文字であるなら、「尼」は釈尊の偉業を継ぐ自覚としての文字ということができる。仏教は他宗教と違い自覚の宗教である。
 尼僧教団(比丘尼)の成立に関しては、2500年前のインド社会の常識からすれば大変異質なことであり、それは他宗教者からすれば絶好の攻撃材料であっただろう。釈尊は出家者ではあるが社会性を無視はしない。尼僧教団を誕生させればどのような波紋が起きるか充分理解してみえたはずである。しかし機が熟した時、釈尊は法に照らして尼僧教団を成立させたのである。この勇気ある決断が、たとえばギリシャ人をして「インドには驚くべきことがある。そこには女性の哲学者たちがいて、男性の哲学者に伍して、難解なことを堂々と議論している」と驚嘆させる歴史を作り上げたのであり、その象徴が「尼」の文字に込められているのだ。

 女性は出家在家を問わず過去に有形無形の差別を受けてきた。それにも関わらず、比丘尼の真摯な求道は仏教史に大きな足跡を残してきたといえよう。勿論綺麗ごとばかりではないことは確かで、仏教の歴史には女性差別の影がいつもつきまとっている。一般社会に根強くある男尊女卑の差別意識は容易には去らず、教団内部にも影響を及ぼしたであろうことは想像がつく。さらに男性出家者においては、家を捨てるということは結局女性との絆を断って生活する事が基本であるから、その出家の場において女性が居るということは修行の妨げに見えてしまうのだろう。あえて断ったはずの異性との絆が復活する可能性を含んでいるのであるから、どうしても比丘尼を見る目は厳しいものとなる。おそらくこの点を鑑みて釈尊は男性僧侶に比べて様々な厳しい条件を加えられたのだろう。それでも多くの比丘尼は出家を維持し、修行の成果には目覚しいものがあったという。

 そうした比丘尼の活躍が「尼」の原点とすれば、現在の女性仏教徒にその活躍を継がない名を強制するのは、仏教の歴史を無視した形とならないか。もし「尼」が出家を表すことで問題なら、優婆夷である名をつければ良いだろう。また文字の並びで「釋尼○○」と付けるのが不自然だとすれば「釋○○尼」とすればよい。さらに、法名による性差の押し付けを問題とするなら、男でも「尼」をつけて女の歴史を背負う例外を設ければ良いだろう。

 人に寄り添わない法名

 もう一つの問題点は、社会全体を覆うかなりやっかいな問題とも関わっている。それは生命の尊厳を脅かす人間の記号化の問題であり、この危機感が組織として余り認識されていないことに私は憂いを抱くのだ。

 以前、質問を受けて他宗旨の(ちょっと困った)事情を調べてみたことがある。
{法名(戒名)や布施の値段} にまとめたとおり、道号の金額は別問題として、男女の差をつけないのは死産や流産の場合のみである。一般的に他宗旨・宗派では男性は「居士」「信士」、女性は「大姉」「信女」等と年齢や性別等で位号を分ける。本願寺派では以前は「尼」の有無のみが性別を知る手がかりであったが、今はそれさえ消し去る方向に確実に進んでいる。
 ところで、性別さえ解らない法名というのものに果たしてどんな意味があるのか、と問いたい。男女の区別をつけないという不自然な名を強制することが、それほど胸を張れる改革だったのだろうか。

 否、と言いたい。これは法名の平等化ではなく記号化である。そして、法名の記号化は人間の記号化に他ならない。名はそれほど重要な意味を持つのだ。

 法名は、法の導きを受け、仏教徒としての伝統を自覚し、法灯を継ぐ名であろう。ならば本来、師がとことんその本人に寄り添い、語らい、その結果において法名を授けなければならない。本願寺派は巨大教団ゆえに、こうした手続きがおろそかになっていた。それが内願申請を受けることにより改善したかに見えたが、尼が削除される方向性は逆に決定的となってしまった。
 人間を観察する際、男女の性差が全く考慮されない、などということがあるだろうか。たとえば悩み相談を受ける際も、相手が男か女か知らずには応じられないだろう。もっと丁寧に個々の人間を見てほしい。理屈ではない、男と女では願い求める自らのあり方の差は大きいのだ。こんな当たり前の現場に配慮が行き届かないようでは宗教活動とは言い難い。
 女児に「太郎」等と名をつける親は(まず)いないように、みずから男性的な名を求る女性は百人中いったい何人いるだろうか。法名は漢字2文字ゆえに男女の差がつけにくい。せめて「尼」をつけるなどして男女の別が解るようにしてほしいのだが、ある研修会でそんな些細な願いを否定するような衝撃的な言葉にであってしまった。
「法名を見て男か女か分からなくても良いと思います」との講師さんの答え。「続柄等の添え書きがあるから充分」という理由だ。
 これが本音だとすれば大変なことだろう。私は開いた口が塞がらなかった。反論すれば研修会が修羅場になるので控えたが、やはり是々非々で言わざるを得ない。

 現在、歴史的に創造されてきた尊い父性や母性が、ジェンダーフリーの思想の影響を受け崩壊の危機にある。確かにこの思想には一理はある。だが一理をもって全体を覆うのは理性の暴走であろう。
 たとえば、父性や母性というのは、生命進化の過程で必然的に生み出された性差を、人々の長年の努力によって人徳に昇華させた尊い仏性である。経典では観世音菩薩を母性の徳の総体、大勢至菩薩を父性の徳の総体と称えている(参照:{観世音菩薩・大勢至菩薩は具体的には誰なのですか?})。これは「男らしさ」「女らしさ」が自覚され展開された結果生み出された宝であったのだろう。ところがこの「らしさ」さえ否定される時代だからややこしい。

 本来の男らしさとは、男が女に照らされ、いかにして大人の男になってゆくかという道程を求めたものであり、男の歴史を男が担うことを基礎とする。女らしさというのも、女が男に照らされ、いかにして大人の女になってゆくかという道程を求めるところから出発し、女の歴史を女が担ってゆくことを基本としている。
 自分が男であるということで男は社会的にどれほど苦悩していることか。それは女も同じだろう。しかしそこでこそ男が育つ、女が育つ。これは家や国の重い歴史を個人が担うことと同様の道程なのだ。そしてこの男らしさや女らしさというのは、個人の人格の核となっているものであり、社会的にもそれは同様である。

 このように社会の文化文明の基本はジェンダーによって成り立っていると言えよう。その上、人は生れた段階で既に歴史や社会を背負った身体で生まれてくる(参照:{自然と社会と仏教の関係})。もちろん形骸化したり硬直化したジェンダーには問題があるが、社会は男女それぞれの徳を下地として成り立っている事実を忘れてはならない。ゆえに私たちは、伝統としてのジェンダーを学んだ上で、それを否定せず尊重しながら新たなジェンダーを創造することが、自らの心身を最大限に輝かす結果につながる。これは磁力を持つ男女の必然であり、そのために清浄・荘厳のはたらきをする浄土を願い求めるのだ。

 それに反し、ジェンダーからの解放は、結果として安逸に胡坐[あぐら]をかく結果を生んでしまうだろう。それはまるで磁力の弱い磁石を作っているようなものだ。そして実際、自己形成の過程でジェンダーを否定した教育が施されているため、現代人は男女の性差を身体では肯定しているのに頭で無理に否定する、という混乱した状況に陥っている。こうした中で、理性が勝った人間は理屈に従って浮ついた論を述べ、理屈を捨てた人間は身に満ちた徳を発揮し地に足のついた歩みを進めてゆく。様式に違いはあるが、古今東西大半の女性は女性らしくありたいと願い、この願いを伝統や地域環境の規範に照らして達成しようとする。これは男も同様だろう。大半を無視した思想は特殊な思想であり、特殊な思想を皆に強制することは暴力以外の何物でもない。

 現代文明の悲劇

 総じて言えば、ジェンダーの否定は自己否定につながってしまう。自己否定によって残るのは記号化された抜け殻の自己であろう。現代文明の悲劇はこの抜け殻のような「存在の軽さ」にさらされた自己が、重い歴史的テーマを背負うところに発生する。そしてこの重みに耐え切れず抜け殻となった人間が選ぶのが、自己破壊であり、自己陶酔であり、文明破壊であり、改ざんした歴史陶酔である。真の歴史を背負い、社会的自覚をもって自己形成するためには、ジェンダーはあえて引き受けねばならぬ。引き受けた伝統の重みによって人は育ってゆくのだ。

 また現代人は理性教育の徹底により心と身が裏腹になりがちで、ストレスがたまり心身に異常をきたす傾向にある。これは人間としての癖が無視され、本来的に癖としてもっていた生命力が削られた結果だろう。この癖の根こそ「煩悩即菩提」の性差であることは言うまでもない。癖のない人間は扱いやすいが頼りにはならぬ。癖のない木が屋台骨にならないように、癖の弱い人間は社会の屋台骨を支えることはできないのだ。このできない人間が屋台骨をやるから無責任な社会ができてしまう。
 大体、人間に男と女がありそこに社会的な徳が込められたのは誰のおかげだろう。阿弥陀仏のおかげではないのか。阿弥陀仏でなければ誰のおかげだというのだろう。

 以上述べたように、私たちの人格の大部分は、男らしさ女らしさの自覚と伝統の上に成り立っていることを知らねばならぬ。ここに男尊女卑の悪しき業も加わっていることは確かだ。しかし、家を住みかとし社会的責任を背負う者にとっては、この宿業の泥田に足を踏み入れるしかない。そして業の深みからそれらを養分として育ちつつ、浄土の清浄・荘厳のはたらきを受け、宿業の泥にまみれない仏性の華を咲かせることが生き貫いてゆく所信となる。

 社会的に逞しく生きる在家仏教徒にとっては男女の差を意識することは必須であろう。この性差を無視するのは出家の道であり、在家者はこの重たい課題をあえて背負うのだ。たとえば親鸞聖人の逞しさは、男として悩み抜いた末、結婚を機に背負った業が育てた逞しさではないだろうか。それは聖人以前の書物には見られない土の芳りと法の香りがともに屹立する言葉の逞しさだ。
 対して伝統的男女の性差を洗い流そうという動きは、泥のついた野菜を「汚い」と言う感覚と同じだ。これでは根無し草である。根無し草は無量寿とはならない。こうした歴史を貫かぬ思考を自力というのだ。

淤泥華といふは、『経』(維摩経)に説いてのたまはく、高原の陸地には蓮を生ぜず。
卑湿の淤泥に蓮華を生ずと。これは凡夫、煩悩の泥のうちにありて、
仏の正覚の華を生ずるに喩ふるなり。これは如来の本弘誓
不可思議力を示す。すなはちこれ入出二門を他力と名づくとのたまへり。

『入出二門偈』2 より

 泥田にこそ蓮の華は開く。歴史を消すな。生活の根を泥田に張ろう。生命の歴史・人類の歴史を尊び、歴史を貫く真心を心として生きてゆこう。
 頭でっかちにならず、浄土真宗の屋台骨はどこにあるのか、もう一度皆で見つめ直していただきたいと切に願っている。

[Shinsui]

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