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【平成アーカイブ/コラム】

平成18年4月2日

ゴルゴは悟りを開いた人間?

当たり前のことだが根本的に異なっている

 野放しにはできない

「ゴルゴは悟りを開いた人間である」という杉森昌武氏の書き出しに目を丸くした。≪リイド社発行/SPコムックス コンパクト/『ゴルゴ13』第79巻 [日米コメ戦争 虎の尾を踏んだ男たち]/平成18年3月28日 初版第1刷発行≫ に掲載された「解説」である。
 さらに、最初はこうした極論を述べつつ、途中から「もちろんこうした比較は極端な話で、実際には……」等の修正がなされるのだろうと思っていたが、ついに最後までこの論で通されてしまった。

 私自身『ゴルゴ13』シリーズは高く評価している。しかし解説文とはいえ、釈尊とゴルゴ13を比較して「あい通じる部分がかなりある」とまで言われては黙っているわけにはいかない。イスラム教徒がムハンマドの風刺漫画に抗議したような過激な行動は取らないが、暴論はたしなめる必要があろう。
 それというのも、以前の日本には「一々説明するまでもなく」という社会基盤があって、その上で論議が重ねられたのだが、どうもそれが怪しくなってきたからだ。たとえば人を殺してはいけないとか、他人をだましたり淫らな行為は慎むべきという社会基盤が過去には存在していたが、最近はそうした常識さえ「ちゃんと説明してもらわないと納得できない」と屁理屈をこねる風潮にある。それどころか「説明できないものは大人の勝手な決め事で、重要なことではない」等とうそぶく輩も大勢いるようだ(参照:{尊さは知識ではなく実感するもの}
 そこで、あえて杉森氏の解説の問題点を挙げてみることにする。理屈を言っても真心が育っていない人間の心には響かないかも知れないが、このまま野放しにはできないのだ。

 「天上天下唯我独尊」の解釈の誤謬

釈迦は生まれた時「天上天下唯我独尊」と言ったそうだが、この世で自分だけが尊いというのだから、傲慢この上ないと言うべきだろう。

 世間には仏教用語に関する誤解が数々あり、例えば「他力本願」に関する誤解などはその最たるもので、世間の宗教音痴ぶりによってほとんど定着しているとさえ言える(参照:{「他力本願」は、他人の力に依存すること?})。この「唯我独尊」も誤解を受けた用語の一つだ。大抵「唯我独尊」は「傲慢」の意味に使われる。市井の人間ならともかく、マスコミ関係者など大衆に責任ある立場の者さえこのような誤解を犯すので実に嘆かわしい。

「天上天下唯我独尊」とは――かつて人類は天災を恐れて天に祈り、地にひれ伏し、時には神の怒りを鎮めるために人身御供まで捧げていたのだが、その愚行を廃して釈尊は、天に我を救う神などいない、地に我を呪う魔もいない。ただ我が為した業の責任を自分で引き受けて生きることが尊いのだ≠ニ宣言し、人間業を変革する因縁果報の道程を示し、覚りの功徳の流布に立ち上がったのである。
 また「唯我独尊」の「尊」は、「既に我は尊いのだ」とふんぞり返る状態を言うのではない。可能性として無限に与えられている「尊」であり、「与えられた尊さを発揮したい」と願う主体我の宣言だ。そこで『仏説無量寿経』では「吾当於世為無上尊」(われまさに世において無上尊となるべし)と丁寧な言い方をして誤解を解いている。

 またこの言葉は釈尊個人の名のりではなく、人類全体の求道精神を宣言したものである。たとえば『涅槃経』では「一切衆生悉有仏性」と「唯我独尊」の意味が示され、自分に具わった仏性に目覚めるだけでは不十分で、生きとし生ける者全てが尊いことを見抜く(眼見)ことを勧めているのである。『仏説無量寿経』の「吾当於世為無上尊」も、聞法の衆生全ての願いを述べたものである。
(参照:{人間は本来、尊い仏なのですか? 罪悪深重の凡夫ですか?}

 「仏教は無神論」の誤謬

……そもそも仏教は無神論である。と言うと疑問に思う人もいるかもしれないが、釈迦の思想の一番の特徴は、合理的、科学的な発想にある。
 釈迦の時代のインドでは、バラモン教という宗教が支配的だった。釈迦は、この多神教を否定する事によって自己の思想を展開していくのだが、その基本は、「事実だけを受け入れる」というものであった。この場合の事実とは、自分が確実に認識した事、実感した事を指す。したがって、本当は見た事も話しをした事もない神なんぞというものは、受け入れるべきではないのである。

<事実だけを受け入れる>ということはある意味正しい。幻覚や幻聴の勘違いは廃しなければならないし、<自分が確実に認識した事、実感した事>のみを語ることは大変重要だ。だが、<合理的、科学的な発想>のみが仏教ではない。相手を思いやる真心と、普遍的世界観・歴史観の裏づけが事実確認の前提にある。さらに杉森氏は<本当は見た事も話しをした事もない神>と断定しているが、これについては少し注意を要する。
 たとえば初期の仏典の一つ『サンユッタ・ニカーヤ』の第一篇から第三篇までは「神々に関する集成」と名づけられ、釈尊と神々との対話が記されている。また同経典の第四篇から第十一篇は「悪魔に関する集成」と名づけられ、釈尊と悪魔との対話が記されている。釈尊は神も悪魔も存在しない≠ニは言っておらず、神々や悪魔と対話までされているのだ。したがって「仏教は無神論」と断定することはできない。
 ただし先に述べたように、釈尊はバラモン教の神々を拝んではいない。神々や悪魔と対話をし、彼らは救いや呪いの本尊とはならない≠ニ「批判」しているのだ。
 世の道理を明らかに覚った仏陀にとっては、神は自分を救う主ではなく、悪魔も自分を害する存在ではない。このことに目覚めた釈尊は、神を拝まず、悪魔を恐れず、ただ自らの人生観で為した業の果報を引き受けて生きてゆくことを宣言される。依りどころは常に自らの人生観のみである(自灯明)。したがって、自らの人生観(信心)が正しく物事を覚っていることが重要で、この依りどころとなるのがあるがままの真実≠ナある。(法灯明)

 さらに神を教学的に言えば――今現実にこの自分は生きている。したがって自分の存在を支えるこの宇宙も何らかの法則によって存在している。宇宙が存在している以上、何らかの要因によって宇宙万物は産みだされ維持されてきた。この宇宙が創造され維持されてきたこの世の「ありのままの道理」を仏教では「真如」とも「法性」ともいうのだ(ただし物理法則ではなく、生命・人生の法が主となる)。そして「法性」は常に現実に現れ出ようとする習性があるゆえ、「法性」は「智慧」と一体となり、「法身」と人格化して示されるのである。
 宇宙の創造法則はバラモン教では「梵天」として人格化する。菩提樹下で覚りを開いた釈尊に教えを説くことを願い出たのはこの梵天である。西洋でいう神も、この梵天はじめ神々のはたらきを人格化したものであろう。現代流に言えば「宇宙の本体」とも「宇宙意思」とも言われる存在である。
 しかし真実は覚られなければ真実である意味がない。仏教では、覚る側の人間こそが主体であり、覚られる神は客体である。ゆえに仏教では、客体の神よりも主体の仏性を尊ぶのである。
(参照:{本地垂迹説について} {カミ・神} {法身と報身の違い}

 「自分にのみ通用する確かな法」の誤謬

釈迦が傲慢であり得たのは、自分にのみ通用する確かな法(ルール)を忠実に貫き、かつ、その自分という存在に揺るぎない自信を持っていたからである。そうした存在を仏陀とか覚者と呼ぶのだが、それは人生のプロフェッシュナルと言ってもよいだろう。

<自分にのみ通用する確かな法>ということだが、これでは「自灯明」のみで「法灯明」が検証されない[よこしま]な法になってしまう。仏陀の説かれた法は個人の法ではなく一切衆生全ての法である。仏陀の歩む道は私道ではなく天下の公道なのだ。また「仏・法・僧」三宝の「僧」は「和合の集い(サンガ)」である。私道ではサンガは創れまい。

 蛇足かも知れないが、「仏陀」と「覚者」の違いについても述べてみると、「覚者」というのは真実を覚った者≠ニいう意だが、これは仏教のみの用語ではないし、正定聚の菩薩も覚者に相当するので、あえて仏のことを言う場合は覚者とは言わない。
「仏陀」は仏教の専門用語だが、仏陀には単に覚った者≠ニいうだけの意に留まらず、覚りに基づく行動と、行動によってもたらされる人相と世間の信用(仏徳)も検証される。総じて言えば、「自覚覚他 覚行円満」の者を仏陀と言う。
 そこで仏陀のことを「如来」、「応供」、「正遍知」、「明行足」、「善逝」、「世間解」、「無上士」、「調御丈夫」、「天人師」、「世尊」とも申し上げる(仏の十号)のである。 (参照:{『仏説無量寿経』5a}{礼拝門・讃嘆門・作願門}
 したがって、<人生のプロフェッシュナル>という言い方だけをとれば案外的を得ているかも知れない。だが何度も言うが、自分勝手な法では人生のプロフェッシュナルにはなれない。一切衆生の「法灯明」を宿してこその「自灯明」なのだ。

 何のために生きているのか

 だが、生き物を殺した者が地獄に堕ちるというのであれば、人間は生き物を食べなければ生きていけないのであるから、全員地獄行きである。ベジタリアンと言えども例外ではない。植物だって生き物なのだ。
 しかし仏教では、生きるためにやむを得ない殺生は、条件付きで認めている。それは、人間が法を保つ器としての使命を自覚し、犠牲となる生き物たちへの哀悼と感謝の念を忘れないという事である。
 ゴルゴは人を殺すことを生業[なりわい]にしている人間だが、それは、彼自身の法のためであり、きっと標的たちにはいつも、哀悼と感謝の念を忘れないでいるはずなのだ。

 食事を摂ることと殺人を同一に語るなど非常識もいいところだが、こうした暴論についても一応順序立てて反論しておく。
 まず、食事を摂ることは<生きるためにやむを得ない殺生>であるが、<人を殺すこと>は<やむを得ない殺生>ではない。もし仏陀を志し、人としての道を極めたいのなら、職を転じればよい。幸い身体は頑丈そうだし、各種才能にも過剰に恵まれているようだ。蓄えもありそうだし……等、これ以上は悪乗りになるので筆を進めないが、殺人を続けていることこそが地獄に堕ちている状態なのである。人間が人間として生きる基本は殺人を犯さないことである。殺人が当たり前の環境はすでに人間社会とは言えない。
(参照:{地獄・極楽の分かれ目と麻原が救われる可能性} {月愛三昧}

 もう一つ、総じて言えることは、そもそも何のために生きているのか≠ニいう人生観を問題としなければならないことだ。
 仏教の中心は「無上菩提心」にある。全ての諸仏は無上菩提心の尊きことを説かれ、一切衆生に無上菩提心を勧められる。「無上菩提心」は「願作仏心」といって、存在の尊さを実現させてゆこうと願い続ける求道精神である。さらに「願作仏心」は一切衆生を覚りの世界に導く心「度衆生心」を伴っている。親しむべき無上菩提心を親しみ、離れるべき無明・煩悩を離れる。この姿勢の中にこそ、諸仏も諸菩薩も一切衆生も、ともに親しみ育むべき宝が存在しているのである。
(参照:{浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?}

 比べてゴルゴは何のために生きているのか、衆生とどういう関係を結びたいのか私には解らない。明確な願いもないまま、ひたすら人を殺すことを生業にし、難しい殺人計画でも正確無比にこなしてゆく。このような生き方を見る限り、仏陀と比べ得るような人生観はゴルゴには無いと言えよう。もしゴルゴと比べるならば、六神通全て具えられた釈迦ではなく、漏尽通を開けなかったダイバダッタの方が近いといえよう(参照:{不貪計心の願})。
 勿論こういった事は作品表現上の設定であり、現代社会のかかえる矛盾や、国家・組織の裏面を暴くため用いられている手法であることは私も重々承知している。もしゴルゴが明確な歴史観をもって行動を起こせば、そうした全体像は浮かび上がらなくなってしまうだろう。

 以上、くどくどしく述べてきたが、「そんなこと、言われなくても解ってるさ」と言っていただければ良い。「冗談みたいな解説に、何でそんなに真面目に応えているのか滑稽だ」と笑ってくれれば幸いだ。洒落が洒落として通っていれば、それは社会基盤がしっかりしている証拠なのだから。

[Shinsui]

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