平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
[index]    [top]
【仏教QandA】

法身と報身の違い

― 色や形や名を現わし兆載永劫の修行を積んだ仏 ―

質問:

固定的実体とは

「自然と宇宙」の中で次のご教授がございましたが、もう少し詳しくお教えいただけませんでしょうか。とくに「真宗における固定的実体」と「色形をとった仏」についてお願い致します。

存在と非存在の問題は観念論になりがちですが、阿弥陀仏の浄土は現に存在している世界です。
阿弥陀仏も今現在も説法を続けてみえる仏です。存在する仏です。
願いが報いられて、色をあらわし形をとった仏です。
このあたり、篤信者でも混乱がありますので注意が必要でしょう。

ただし「存在する」「形をとった」といっても、固定的実体として存在するのではなく、色を通し、形を通して、存在が確認できる仏なのです。
色が仏ではなく、形が仏ではないのですが、願いが成就した姿が色を通しててあらわれ、形にあらわれた仏が阿弥陀仏であり、このあらわれた仏との出遇いが信心なのです。
さらに、仏と出遇うだけではなく、仏が私に成り切り、仏願が私の願いと成り切っていくことが肝心です。

返答

 浄土真宗のみならず浄土教や仏教全体にとって、阿弥陀仏とは何か、浄土とは何かを明らかにすることは教学の根幹に関ることです。親鸞聖人もここを極められたのだと思います。そして「色形をとった仏」という点についてご理解いただけば、聖人の求められた道も明らかになると思います。
 そこでまず、仏教の基本から法身と報身の違いについて理論的に説明し、続いて『仏説無量寿経』における具体的な記述を引いて検証し、最後に浄土の味わいについていくつか例を挙げて紹介します。少しくどくなるかも知れませんが、如来の核心に触れる問題ですから、「法身と報身」の一点に絞ってこの三つの角度から検証したいと思います。

 仏教の基本から

 まず「真宗における固定的実体」ということですが、これは真宗のみならず仏教の基本で、「諸法無我」という三法印のひとつを言ったものです。あらゆるものは因縁によって生じたもので固定的実体はないのです。「固定的実体がある」と思うことを、仏教では亀毛(亀の甲羅に毛が生えていると誤解する)・兎角(兎に角が生えていると誤解する)の邪見などと批判します。この基本を外してしまえば真実でも仏教でもなくなってしまいます。
 たたし大乗仏教では、このことを踏まえながらも、「常でないものを常と思い、自我でないものを自我と思っているから無我を説くが、常なるものを無常と思い、我なるものを無我と思うのも間違いである」とし、「無我とは生死のことであり、我とは如来のことである。無常とは声聞・縁覚のことであり、常とは如来の法身である」と『涅槃経』等は説きます。いわゆる「大我・真我」と表現されるもので、執われる対象としての我ではなく、自らの主体である如来のいのち(無上菩提心)が主体として立ち上がることを我といいます。大乗仏教では我執と真我、どちらも我として顕わしますので学ぶ時に注意が必要でしょう。「我聞如是」とか「我一心」の「我」も後者の意味です。

 ですから、「色形をとった仏」を固定的実体ととらえたり、対象として拝んでしまえば外道に陥ってしまいます(有為の顛倒)が、覚りそのものが無いと思ってしまえば「常なるものを無常と思い、我なるものを無我と思う」という間違い(無為の顛倒)を犯しますので、掲示板では<ただし「存在する」「形をとった」といっても、固定的実体として存在するのではなく、色を通し、形を通して、存在が確認できる仏なのです>と述べました。

 以上のことを踏まえ、まずは親鸞聖人著『唯信鈔文意』4を引用して報身について説明したいと思います。

「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性なり、法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。報と申すはたねにむくひたるなり。この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光を放たしめたまふゆゑに尽十方無碍光仏と申すひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。無明の闇をはらひ、悪業にさへられず、このゆゑに無碍光と申すなり。無碍はさはりなしと申す。しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。

『唯信鈔文意』4 より

意訳▼(現代語版 より)
「涅槃」のことを滅度といい、無為といい、安楽といい、常楽といい、実相といふ、法身といい、法性といい、真如といい、一如といい、仏性という。仏性はすなはち如来である。
 この如来は、数限りない世界のすみずみまで満ちわたっておられる。すなわちすべての命あるものの心なのである。この心に誓願を信じるのであるから、この信心はすなわち仏性であり、仏性はすなわち法性であり、法性はすなわち法身である。法身は色もなく、形もない。だから、心にも思うことができないし、言葉にも表すことができない。この一如の世界から形をあらわして方便法身というおすがたを示し、法蔵比丘と名乗られて、思いはかることのできない大いなる誓願をおこされたのである。
このようにしてあらわれてくださったおすがたのことを、世親菩薩は「尽十方無碍光如来」とお名づけになったのである。この如来を報身といい、誓願という因に報い如来となられたのであるから、報身如来と申しあげるのである。「報」というのは、因が結果としてあらわれるということである。
この報身から応身・化身などの数限りない仏身をあらわして、数限りない世界のすみずみにまで、何ものにもさまたげられない智慧の光を放ってくださるから、「尽十方無碍光如来」といわれる光であって、形もなく色もないのである。この光は無明の闇を破り、罪悪にさまたげられることもないので、「無碍光」というのである。「無碍」とは、さわりがないといことである。このようなわけで、阿弥陀仏は光明であり、その光明は智慧のすがたであると知らなければならない。

 {浄土理解の相違点} でも説明しましたが―― 当初は「涅槃」は「ニルヴァーナ・煩悩に勝った(無くなったのではない)」という意味で、これは内的衝動と外的刺激に惑わされない泰然自若とした境地であり、真如とは違った意味でしたが、仏教の発展と伝播の過程で同義語と考えられるようになりました。そこで、「涅槃」→「滅度」→「無為」→「安楽」→「常楽」→「実相」→「法身」→「法性」→「真如」→「一如」→「仏性」→「如来」という図式が成り立つというわけです。厳密に言えば、「涅槃」→「滅度」は良いとして、「滅度」→「無為」は同義語というには少し論理に飛躍がある気がしますし({必至滅度の願} 参照)、老荘思想の影響も考慮しなくてはなりませんが、煩雑になりますのでここでは略します。

 こうして一旦「如来」とのつながりを示した後、「この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり」とありますが、これは「一切衆生の心根は本来は如来である」、「生命の本質は如来で満ちあふれている」、「一切衆生悉有仏性」という意味です。ただしこれも常識として対象的にとらえれば外道に陥りますので注意が必要です。重要なのは、「仏性はあるかないか」が問題なのではなく、「仏性が見えるか見えないか」が浄土と娑婆を分けるのです。
 仏性が本当に見える人は「悉有仏性」と見るのであり、実際には見えず理屈で考えているだけの人には「仏性がある人と無い人がいる」と勝手な見方をするのです。仏性は真実信心の境地において聞見もしくは眼見できるので、覚った人にとっては仏性は見たままの現実ですが、仏性を見ない人にとっては仏性は無いに等しく、いわゆる宝の持ち腐れ状態なのです。名画も名画を観る目の無い人にとっては単なる落書きと同じでしょう。ですから「一切群生海の心なり」というのは前者の境地であり、後者を前者の境地に導くことを往生といい、正定聚・不退転の位といって仏道全体において一つの要めとなります。

 次に、「この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり」とありますが、この部分の「誓願」は、具体的な四十八願や重誓偈だけを指すのではなく、まだ色や形や言葉と成っていない誓願についても仰ってみえるのでしょう。いわば「生命の根源的な叫びと名のり」ともいうべき誓願です。一切衆生の心は本来は如来で満ちあふれているのですが、「本来」が実際に展開するためには、本来の心が誓願として人生観の軸(信楽・真実信心)となることが必要です。仏法を学ばない人は中々本来の誓願が発見できず、自分の生きる主軸が時代に流されたり煩悩に遮られたりしています。そこでこの本来の誓願が要となる真実信心を仏性(仏になる性質)といい、これを「法性」ともいうのです。
「法性」というのは、真如や一如などと同義語で、法が「あるがまま」・「存在の真のすがた」・「真実そのもの」・「一切の現象(存在)を貫いている絶対の真理」・「一切のものの真実常住なる本性」であることを意味し、これが信心の内容と一体であることを示します。つまり、真実といっても外界や内面を対象として見るだけではなく、内外を見ること自体に真実を問うのです。肉眼は眼自体を見ることはできませんが、心の眼は対象と同時に見ている眼自体を見ることができます。

「法身」は「法性・真如」の内容を人格化したものですが、なぜ「身」と言ったかというと、真実は「あるがまま」にとどまらず、自らを現わそう現わそうという働きを持っていることを示しているのです。これは衆生の側に立てば、私が真実を求めるということは、実はその裏に真実の側からの呼びかけがあった、と信受することになります。真実は常にはたらきを宿して存在しているのです。例えば「川」は「水」と「流れ」の両方を宿し、「雨」も「水」と「降る」という両面があるように、「真実」も「真」であることと「現われる」という動的な面が一体となっているのです。
 このように、元来一切衆生は動的な如来の真実心を種として頂いていますので、この如来の心が法性法身の誓願を直接信楽できるのであれば、この信は仏性であり法性であり法身であるわけですから、一切衆生はそのまま仏に成れるわけです。

 しかし現実はそう簡単にはいきません。「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」で、あるがままの働きといっても、法身は色や形がないので意識に上らず、言葉として表すことができません。人間は、色や形や言葉になっていない働きには非常に鈍感であり、覚った人が「ある」と言っても、覚っていない人は「証拠がないから無い」とか「気のせいだ」と疑います。
 また、「ある」という言葉を受け入れた人がいても、理解する心のはたらきに執われたり、「ある」ということを固定化実体化して心に留めてしまうと、結局は妄想化・迷信化してしまうのです。これでは真の法身のはたらきから離れてしまいますが、世の中にはこうした宗教が数限りなくあるのです。

 この問題を解決するのに二つの道があります。一つは、「色もない形もない法身」と出遇うため、色や形に執着せず、空(これも空という固定的実体がある訳ではない)を覚って生きる出家の道です。これは自力難行道であり、才能と実力と境遇が整わなければ成就できません。金銭の算段をしたり家庭生活を営む人にとっては縁の遠い道であり、また、出家して空を覚っても、そこからまた世俗の問題を考える時には、改めて家庭や社会を学び直さなければいけません。

 もう一つの道は、世俗の生活をしながら、楽しく「真実報身」と縁を結ぶ道です。この道を覚られた経典編纂仏の境地を、経典に記載された本願成就の物語を通して学び領解すれば、私たちも仏と等しい智慧が得られるわけです。
 さて、色もない形もない「法身」が、「法蔵」と名をつけ、色や形を現わして姿を示し比丘となった段階は「方便法身」であり、この法蔵比丘を通してまず私たちは人間としての所信を学びます。『讃仏偈』はまさに人類を代表した所信表明でしょう。比丘は、この所信をさらに具体化し、法身の根源的な叫びを歴史的・社会的な責任を担った誓願に開くため、世自在王仏から実社会の体験を通した教えを受け、五劫の間考え抜いて大誓願を顕わし、この誓願に基いて兆載永劫の修行で功徳を積んで、それら全体の報いとして報土(浄土)を成就し、「報身」(無量寿仏・尽十方無碍光如来・阿弥陀仏)と成られたのです。
 ちなみにこの「法蔵比丘」が「無量寿仏」と成ってからは、以前の本願建立時の法蔵は「法蔵菩薩」と呼ばれるのです。誓願を建てた因位の段階は「法蔵比丘」ですが、誓願が成就した後の無量寿仏の胸に宿る「法蔵」は「法蔵菩薩」となります。

 ここで重要なのは、成仏した阿弥陀仏の胸には常に「法蔵菩薩」が宿っているからこそ仏の寿命は無量である、ということです({寿命無量の願}参照)。「報身」は誓願が報われて姿形を取りますが、結果として現われた姿形に執われてしまえば仏の抜け殻しか見えません。常に法蔵菩薩の精神を宿していなければ、仏が仏としての値打ちを失ってしまうのです。これが報身如来の特徴であり、このことが領解できれば、私たちは現実にある色や形や名を通して、真実の阿弥陀仏に遇うことがかなうのであり、浄土そのものを観見することができるのです。それはとりもなおさず、法蔵菩薩の精神が私の精神と成って立ち上がったということに他なりません。

 ここで問題となってくるのは、「法蔵比丘」は方便法身で「無量寿仏」は真実報身であるのは明らかなのですが、無量寿仏の胸に宿る今現在の「法蔵菩薩」は果たして法性法身なのか方便法身なのか真実報身なのか、ということです。どうして問題なのかというと、法蔵菩薩は信心と直結しているからです。阿弥陀仏が仏として成就するには、法蔵の願心が衆生の信心と成り切る必要があるからです。
 ちなみに『唯信鈔文意』ではこの後、「尽十方無碍光仏と申すひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず」とあり、常識的に読めば「無量寿仏」が突然「法性法身」に後戻りしているのです。せっかく本願を建立し兆載永劫の修行をしたのに、この苦労が白紙に戻ってしまっているかのようです。このままではどうしても自家撞着としか思えないのですが、この「かたちもましまさず、いろもましまさず」が、無量寿仏の胸に宿る今現在の法蔵菩薩のことを指しているとすれば、ここに親鸞聖人の領解を見ることになります。
 どういうことかといいますと、色・形・言葉の無い「法身」が、色・形・言葉をあらわして「法蔵」・「法蔵比丘」となった段階は「方便法身」で、本願を建て兆載永劫の修行が成就した今現在は「無量寿仏・尽十方無碍光如来・阿弥陀仏」と報いた「真実報身」ですが、その精神である「法蔵菩薩」は身を「法性法身」に戻してゆく、ということが親鸞聖人の理解ではないでしょうか。
 つまり、法性法身から方便法身に姿を表した法蔵比丘は、本願建立と兆載永劫の修行を経て、姿形は無量寿仏として報い、その精神は法性法身に身を戻して報身である無量寿仏の胸に宿り、衆生の信心に成り切るように働いている、ということです。

 もちろん他の解釈――<法蔵菩薩はもともと方便法身であり、誓願が言葉として残っているのだから、今でも法蔵菩薩は方便法身である>という論も成り立ちますし、ある意味これが最も常識的な理解といえましょう。しかし比丘から菩薩に名を変えたところを見ると、そこに何らかの経家(大経編纂仏)の意図を感じずにはいられません。

 さらに――<法蔵比丘は本願建立と兆載永劫の修行によって真実報身に成ったのだから、無量寿仏の精神である法蔵菩薩も報身である>という領解も成り立ちます。特に「南無阿弥陀仏」の領解でいいますと、阿弥陀仏は真実報身ですが、もし南無である法蔵精神が法性法身に戻ってしまえば「機法一体の南無阿弥陀仏」は成立しません、「機法合体の南無阿弥陀仏」になってしまいます。南無も報身、阿弥陀仏も報身、機と法が一体であってはじめて機法一体の南無阿弥陀仏になるのではないでしょうか。
 以上、三つの解釈を示してみましたが、どの解釈が正しいかということは、一度皆さんご自身で体験して領解してみて下さい。自身の生活を通して浄土三部経を読む、特に大経を何度もじっくり読み込んでいけば、おのずと一つの解釈が浮かびかがってきます。ですからここでは私の領解は控えさせていただきます。

 さてこの「真実報身」は現に存在する仏であり、姿形を通して見える仏です。そして様々な音を通して説法が響いてくる仏です。これが具体的に何を指しているのか解り、「ああ、経典に書いてあることは全部本当のことだ」と肯ければいいのです。報身は「これです」と説明はできませんが、ある程度までなら焦点を絞って説くことはできますので、ずっとくどくどしく説明させていただいているのです。もし肯くことができないようでしたら、私の表現能力の無さによるものでしょうから、他の人によく聞いて確かめてみて下さい。

 ちなみに法身と報身の比較ですが、「根源である法身や空を覚る方が本物の仏教だ」と考えるのは本当ではないのです。
『往覲偈』(大経下巻)には――「たとひ一切の人、具足してみな道を得、浄慧、本空を知り、億劫に仏智を思ひ、力を窮め、講説を極めて、寿を尽すとも、なほ知らじ。仏慧は辺際なくして、かくのごとく清浄に致る」(たとえすべての人々が、残らずみな道をきわめて、清らかな智慧ですべては空であると知り、限りなく長い時をかけて仏の智慧を思いはかり、力の限り説き明かし、寿命の限りを尽したとしても、仏の智慧は限りなく、このように清らかであることを、やはり知ることができない)とありますが、これは実に驚くべき内容なのです。
 初期の仏教は涅槃を、大乗仏教では空や真如を覚ることが目的だったのですが、その空を覚っても阿弥陀仏の智慧を知ることはできない、というのです。
 実はこれは、「浄土教」が大乗仏教から脱皮した宣言文という見方もできるのです。

 たとえば、「私はこの社会の中で責任を負ってどう生きていけばよいのか」という問題と、真如や空を覚る問題を比較して、どちらが大切だと思われるでしょうか。
 浄土三部経以前は――<この世は仮の世であり、人生はたかだか五十年百年のことだから、常住の真如を覚れ>という価値観が根底にあり、そのため一般社会にある価値観を低く見、この世にある物事全てに対し「とらわれるな」と指導したのです。ようやく存在の尊さを説いた『華厳経』でも、師に出遇うことで人格が成長することは述べられていますが、現実の歴史社会に責任を持って歩むことについては主軸として考えられていません。
 しかし『往覲偈』には「諸法の性は、一切、空無我なりと通達すれども、もつぱら浄き仏土を求めて、かならずかくのごときの刹を成ぜん」(すべてみな、その本性は空・無我であると見とおしながらも、ひたすら清らかな国を求めて、必ずこのような国をつくることができるのである)とあるように、念仏の行者は阿弥陀仏の浄土のように、自分独自の国をつくる願いを持つことが賞賛され、しかもその清浄・荘厳の成就まで約束されているのです。この国というのは国家と同義ではありませんが、社会の中で自らの存在がその人独自の価値として認められ、国ともいうべき広がりを持った世界ということは言えるでしょう。
 これは、『仏説無量寿経』の異訳(支謙訳)に『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』(通称『大阿弥陀経』)と名がついた漢訳もあり、「過度人道経」ですから、経の主旨が「私はこの社会の中でいかに生きていけばよいのか」という問題であることを顕わしているといえるでしょう。

 このように、阿弥陀仏は、世に超えた本願と兆載永劫の修行によって、法身や空のはたらきを超え、あらゆる時代と人の機に応じつつ報われた総決算としての身であり、本願に報いた報土を成就した報身ですから、現実そのものに現われていながら最も勝れた本仏なのです。そしてさらに、「この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光を放たしめたまふ」とあるように、報身だからこそ、実際に仏・菩薩を生み出す功徳も大きいのです。
 ここに書いてある「世に超えた本願と兆載永劫の修行」とは何か。「世に超えた本願」は因位においては法身のはたらきの言語化(方便法身)ですが、「兆載永劫の修行」は現実の歴史において、衆生に宿る如来が行なった功徳を積む修行を顕わしています。
 ただしこれは、歴史的事実として過去から現在に向かって時間が進むのではなく、今現在存在する私たちの在り方を、歴史的真実の物語として説いてあるのです。あくまで今現在この場の私の在り方を無限に深めた内容なのです。

 以上をまとめてみますと――

 大経における具体的な記述

 前節で述べましたことを、『仏説無量寿経』(大経)において検証させていただきます。

仏、阿難に告げたまはく、「法蔵比丘、この頌を説きをはるに、時に応じてあまねく地、六種に震動す。天より妙華を雨らして、もつてその上に散ず。自然の音楽、空中に讃めていはく、〈決定してかならず無上正覚を成るべし〉と。ここに法蔵比丘、かくのごときの大願を具足し修満して、誠諦にして虚しからず。世間に超出して深く寂滅を楽ふ。阿難、ときにかの比丘、その仏の所、諸天・魔・梵・竜神八部・大衆のなかにして、この弘誓を発す。この願を建てをはりて、一向に専志して妙土を荘厳す。所修の仏国、恢廓広大にして超勝独妙なり。建立〔せられし仏国は〕常然にして、衰なく変なし。不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して、欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず。色・声・香・味・触・法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして染・恚・痴なし。三昧常寂にして智慧無碍なり。虚偽・諂曲の心あることなし。和顔愛語にして、意を先にして承問す。勇猛精進にして志願倦むことなし。もつぱら清白の法を求めて、もつて群生を恵利す。三宝を恭敬し、師長に奉事す。大荘厳をもつて衆行を具足し、もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ。空・無相・無願の法に住して作なく起なく、法は化のごとしと観じて、粗言の自害と害彼と、彼此ともに害するを遠離し、善語の自利と利人と、人我兼ねて利するを修習す。国を棄て王を捐てて財色を絶ち去け、みづから六波羅蜜を行じ、人を教へて行ぜしむ。無央数劫に功を積み徳を累ぬるに、その生処に随ひて意の所欲にあり。無量の宝蔵、自然に発応し、無数の衆生を教化し安立して、無上正真の道に住せしむ。あるいは長者・居士・豪姓・尊貴となり、あるいは刹利国君・転輪聖帝となり、あるいは六欲天主、乃至梵王となりて、つねに四事をもつて一切の諸仏を供養し恭敬したてまつる。かくのごときの功徳、称説すべからず。口気は香潔にして、優鉢羅華のごとし。身のもろもろの毛孔より栴檀香を出す。その香は、あまねく無量の世界に熏ず。容色端正にして相好殊妙なり。その手よりつねに無尽の宝・衣服・飲食・珍妙の華香・ゾウ蓋・幢幡、荘厳の具を出す。かくのごときらの事もろもろの天人に超えたり。一切の法において自在を得たりき」と。

『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 法蔵修行 より

意訳▼(現代語版 より)
 釈尊が阿難に仰せになる。
「法蔵菩薩【※註】が、このように述べおわると、そのとき大地はさまざまに打ち震え、天人は美しい花をその上に降らせた。そしてうるわしい音楽が流れ、空中に声が聞こえ、<必ずこの上ないさとりを開くであろう>とほめたたえた。ここに法蔵菩薩はこのような大いなる願をすべて身にそなえ、その心はまことにして偽りなく、世に超えすぐれて深くさとりを願い求めたのである。
 阿難よ、そのとき法蔵菩薩は世自在王仏のおそばにあり、さまざまな天人・魔王・梵天・竜などの八部衆、その他大勢のものの前で、この誓いをたてたのである。そしてこの願をたておわって、国土をうるわしくととのえることにひたすら励んだ。その国土は限りなく広大で、何ものも及ぶことなくすぐれ、永遠の世界であって衰えることも変わることもない。このため、はかり知ることのできない長い年月をかけて、限りない修行に励み菩薩の功徳を積んだのである。
 貪りの心や怒りの心や害を与えようとする心を起こさず、また、そういう想いを持ってさえいなかった。すべてのものに執着せず、どのようなことにも耐え忍ぶ力をそなえて、数多くの苦をものともせず、欲は少なく足ることを知って、貪り・怒り・愚かさを離れていた。そしていつも三昧に心を落ちつけて、何ものにもさまたげられない智慧を持ち、偽りの心やこびへつらう心はまったくなかったのである。表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を汲み取ってよく受け入れ、雄々しく努め励んで少しもおこたることがなかった。ひたすら清らかな善いことを求めて、すべての人々に利益を与え、仏・法・僧の三宝を敬い、師や年長のものに仕えたのである。その功徳と智慧のもとにさまざまな修行をして、すべての人々に功徳を与えたのである。
 空・無相・無願の道理をさとり、はからいを持たず、すべては幻のようだと見とおしていた。また自分を害し、他の人を害し、そしてその両方を害するような悪い言葉を避けて、自分のためになリ、他の人のためになり、そしてその両方のためになる善い言葉を用いた。国を捨て王位を捨て、財宝や妻子などもすべて捨て去って、すすんで六波羅蜜を修行し、他の人にもこれを修行させた。このようにしてはかり知れない長い年月の間、功徳を積み重ねたのである。
 その間、法蔵菩薩はどこに生れても思いのままであり、はかり知れない宝がおのずからわき出て数限りない人々を教え導き、この上ないさとりの世界に安住させた。あるときは富豪となり在家信者となり、またバラモンとなり大臣となり、あるときは国王や転輪聖王となり、あるときは六欲天や梵天などの王となリ、常に衣食住の品々や薬などですべての仏を供養し、あつく敬った。それらの功徳は、とても説き尽すことができないほどである。その口は青い蓮の花のように清らかな香りを出し、全身の毛穴からは栴檀の香りを放ち、その香りは数限りない世界に広がり、お姿は気高く、表情はうるわしい。またその手から、いつも、尽きることのない宝・衣服・飲みものや食べもの・美しく香り高い花・天蓋・幡などの飾りの品々を出した。これらのことは、さまざまな天人にはるかにすぐれていて、すべてを思いのままに行えたのである」

(※註: 「現代語版」では法蔵比丘が法蔵菩薩と訳してありますが、こういう雑な訳し方では経典の真意が見えてきません)

 以上は、四十八願と重誓偈に続く文言で、「時に応じてあまねく地、六種に震動す。天より妙華を雨らして、もつてその上に散ず」というのは、誓願が果しとげられることを宣言する文で、「この願もし剋果せば、大千まさに感動すべし。虚空の諸天人、まさに珍妙の華を雨らすべし」という偈を受けての文です。如来の誓願を聞いて宇宙が感動し、天地が感応しているのです。

 ここからの修行は、経典に事細かに書いてある通りを受け取ればよいのですが、一方で「法蔵菩薩とは何か」が明らかになっていく箇所でもあります。前節でも書きましたように、法蔵菩薩の正体については色々な解釈があると思いますが、私は「人類の歴史社会における求道精神の人格化」とか「無上菩提心が血となり肉となった象徴」という領解が勝れていると思います。

 また、「あるいは長者・居士・豪姓・尊貴となり、あるいは刹利国君・転輪聖帝となり、あるいは六欲天主、乃至梵王となりて、つねに四事をもつて一切の諸仏を供養し恭敬したてまつる」という生死は、歎異抄にいう「一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり」という流転生死の持続の段階ではなく、如来願心の持続となる生死であり、無上菩提心・大慈大悲の相続の生死をいうのでしょう。つまり「分段生死」ではなく「不思議変易生死」に属する生死であり、たとえば道綽禅師の云われる「前に生ずるものは後を導き、後に去かんものは前を訪ひ、連続無窮にして願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり」(安楽集3)という内容を生む根本の精神や実践の相続を覚りの生死であらわしたのです。
 如来の誓願は、先祖の胸に生き、先祖の手足となって働き続けてみえたわけです。目の前に存在する色や形や言葉はその結果であり、私の身心もその結果生み出された尊い存在なのです。もちろん私自身や社会は迷いと覚りの両方を矛盾的に宿していますので、この見分けが必要となります。結果として現われた表面の色形だけに執われてしまうと如来の誓願は見えませんが、果より因に戻って領解する、もしくは果より因の展開を領解すると、姿形を通して歴史的な深い精神を知ることになり、如来の展開された本願成就の因縁が鮮やかに甦ってくるのです。ここにおいて私たちは浄土の実相(真如実相ではない)を信受することができるのです。

阿難、仏にまうさく、「法蔵菩薩、すでに成仏して滅度を取りたまへりとやせん、いまだ成仏したまはずとやせん、いま現にましますとやせん」と。
仏、阿難に告げたまはく、「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」と。阿難、また問ひたてまつる、「その仏、成道したまひしよりこのかた、いくばくの時を経たまへりとやせん」と。仏のたまはく、「成仏よりこのかた、おほよそ十劫を歴たまへり。その仏国土は、自然の七宝、金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・シャコ・碼碯合成して地とせり。恢廓曠蕩にして限極すべからず。ことごとくあひ雑廁し、うたたあひ入間せり。光赫焜耀にして微妙奇麗なり。清浄に荘厳して十方一切の世界に超踰せり。衆宝のなかの精なり。その宝、なほ第六天の宝のごとし。またその国土には、須弥山および金剛鉄囲、一切の諸山なし。また大海・小海・谿渠・井谷なし。仏神力のゆゑに、見んと欲へばすなはち現ず。また地獄・餓鬼・畜生、諸難の趣なし。また四時の春・秋・冬・夏なし。寒からず、熱からず。つねに和らかにして調適なり」と。そのときに阿難、仏にまうしてまうさく、「世尊、もしかの国土に須弥山なくは、その四天王およびトウ利天、なにによりてか住する」と。仏、阿難に語りたまはく、「第三の焔天、乃至、色究竟天、みななにによりてか住する」と。阿難、仏にまうさく、「行業の果報、不可思議なればなり」と。仏、阿難に語りたまはく、「行業の果報不可思議ならば、諸仏世界もまた不可思議なり。そのもろもろの衆生、功徳善力をもつて行業の地に住す。ゆゑによくしかるのみ」と。阿難、仏にまうさく、「われこの法を疑はず。ただ将来の衆生のためにその疑惑を除かんと欲するがゆゑに、この義を問ひたてまつる」と。

『仏説無量寿経』10 巻上 正宗分 弥陀果徳 十劫成道 より

意訳▼(現代語版 より)
阿難が釈尊にお尋ねした。
「法蔵菩薩は、仏となって、すでに世を去られたのでしょうか。あるいはまだ仏となっておられないのでしょうか。それとも仏となって、今現においでになるのでしょうか」
 釈尊が阿難に仰せになる。
「法蔵菩薩はすでに無量寿仏という仏となって、現に西方においでになる。その仏の国はここから十万億の国々を過ぎたとことにあって、名を安楽という」
 阿難がさらにお尋ねした。
「その仏がさとりを開かれてから、どれくらいの時が経っているのでしょうか」
 釈尊が仰せになる。
「さとりを開かれてから、およそ十劫の時が経っている。その仏の国土は金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・シャコ・瑪瑙などの七つの宝でできており、実にひろびろとして限りがない。そしてそれらの宝は、互いに入りまじってまばゆく光り輝き、たいへん美しい、そのうるわしく清らかなようすは、すべての世界に超えすぐれている。さまざまな宝の中でもっともすぐれたものであり、ちょうど他化自在天の宝のようである。またその国には須弥山や鉄囲山などの山はなく、また大小の海や谷や窪地などもない。しかしそれらを見たいと思えば、仏の不思議な力によってただちに現れる。また、地獄や餓鬼や畜生などのさまざまな苦しみの世界もなく、春夏秋冬の四季の別もない。いつも寒からず暑からず、調和のとれた快い世界である」
 ここで阿難が釈尊にお尋ねした。
「世尊、もしその国土に須弥山がなければ、その中腹や頂上にあるはずの四天王の世界や刀利天などは、何によってたもたれ、そこに住むことができるのでしょうか」
 すると釈尊が阿難に仰せになった。
「では、夜摩天をはじめ色究竟天までの空中にある世界は、何によってたもたれ、そこに住むことができると思うか」
 阿難が釈尊にお答えする。
「それらの天界は、それぞれの行いを原因としてもたらされた不可思議なはたらきとしてそうあるのでございます」
 釈尊が仰せになる。
「それぞれの行いを原因としてもたらされた不可思議なはたらきとしてあるというなら、仏がたの世界もまたそのようにしてたもたれているのであり、無量寿仏の国のものたちはみな、功徳の力により、その行いを原因としてもたらされたところに住んでいるのである。そこで須弥山がなくても差し支えないのである」
 阿難が申しあげる。
「世尊、わたしもそのことを疑いませんが、ただ将来の人々のために、このような疑いを除きたいと思ってお尋ねしたのでございます」

 ここも浄土がどのように存在しているか知る重要な箇所です。
「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします」というのは、法蔵菩薩は既に成仏している、つまり「誓願は既に成就している」ということを顕わしています。しかし、戦争を繰り返すような人類を見れば誓願の成就は遙か未来のこととしか思えないでしょうし、肝心の自分自身も迷いが晴れていません。しかし経典では「成就している」と言われるのです。
 この一見矛盾する成仏について、曇鸞大師は「木の箸で一切の草木を焼こうとする時、草木が尽きる前に木箸が尽きてしまった」という喩えで応えてみえます。願が現実に成就するのは永遠の未来ですが、願が純粋になり一心に成ることが菩薩の誓願が完成した姿なのです。願が本気になった、願が主体になった。未完成の完成ということが願成就なのです。誓願とは本来が本来の姿を完全に発揮したいと願うことであり、そういう性格上、現実に願いが完全にかなうことはありませんが、願を取り下げることもできない。一生涯願いを持ち続けていき、後に続くものに託していく。そういう相続される願の完成が成就なのです。

 次に、「ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」という文の「ここ」とは、先入観をもって現実を分別識量する衆生の場であり、「十万億」とは一切衆生や人類の頭数をあらわしていますので、一切衆生の識量する場を「去る」ことで現われる世界が浄土であるということです。一切衆生の浅い心を離れた深き底に浄土が伏流しているのです。色や形や言葉の表面に執われることなく、しかしそれらを捨てるのではなく、色や形や言葉を通して、人類の歴史を貫いて底辺で衆生を支え続けてきた世界を安楽浄土といただき、この依りどころである場をそのまま依りどころとするのです。
 なおここで「西方」というのは、現実の辛苦を経験し尽したところで開かれる世界、ということでしょう。「浄土が西方にある」とか「臨終において往生する」というのは、本当に西方にあったり臨終に往生するという意味ではなく、「そう表現せざるを得ない私の胸の内を知ってほしい」という仏の叫びが言わせたのでしょう。つまり浄土の本質を方向や時間で象徴的に示したものであり、現実の浄土がはたらくのは今、この場この状況の私においてなのです。

 では実際に浄土がどのように見えるのかというと、「またその国土には、須弥山および金剛鉄囲、一切の諸山なし。また大海・小海・谿渠・井谷なし。仏神力のゆゑに、見んと欲へばすなはち現ず」とありますように、世の中をぼけーっと眺めていても見えないのです。しかし本願成就のいわれを学んで見直してみれば、浄土は鮮やかに姿を現わすのです。浄土より回向された菩提心が私の菩提心に成り切ることによって、浄土の歴史をまるごと抱えて姿を現わすのです。念仏の功徳を称えていると、見ようと思えば直ちに現われてきます。具体的に世の中を見れば、浄土は具体的に姿を現わすのです。最初は本願成就のいわれを聞き開き、心を込めて自他を観察する必要がありますが、次第に、現われてくる浄土をそのまま見ることができるようになります。このあたりが初地から十地満位の差といえるでしょう。

 このように浄土を見ることができる人々は、「功徳善力をもつて行業の地に住す」(無量寿仏の国のものたちはみな、功徳の力により、その行いを原因としてもたらされたところに住んでいる)とありますように、浄土に住むというのは、どこか別の場所に移動するのではなく、如来の誓願を信受してもたらされた世界観・人生観が私に成りきることなのです。これがすなわち浄土に住むことと同義なのです。そして、浄土には往生し切ってしまうのではなく、常に現実の荒波に翻弄されながら、その度ごとに本願の信に帰依せしむる働きを拝んで境地がさらに育てられるのです。

 様々な味わい

 浄土を見られた方の領解を少しご紹介します。せっかくのお領解ですから説明は蛇足かも知れませんが、少しずつ私の味わいも加味してみます。

枝を支える幹
幹を支える根
根はみえねんだなあ

(相田みつを)

 確かに根は見えませんが、見えない根の世界があるという気付きが大切です。

見えないところで 見えないものが 見えるところをささえ生かし養いあらしめている

(東井義雄)

 見えない世界が見える世界を支えている、ということに気付くと、見えない世界の内容を知りたいと願うようになります。これが聴聞です。

内に目をむければむけるほど 外の世界が広がってくる

(鈴木章子)

 内外のこうした関係は、浄土を見る基本でしょう。

いくたぴかお手間かかりし菊の花

(千代女)

「菊の花」の裏に「いくたぴかお手間かかりし」が見えていますね。「菊」と「聞く」が重ねてあることに気付くと、「今聞いている私」の内容が見えてくるのです。

風はみえないけれど 風のすがたは
なびく草の上に 見える

(大江淳誠)

「風」を「浄土」、「草」を「世間」と言いかえてみましょう。ただし浄土は無為自然ではありません。真心の歴史が環境に報いているのです。

亡き友と 語らんとして 言葉なし
み名を称えて 問いつ答えつ

(足利浄圓)

 生きている友と話す時は、雑談でも話が通じているように錯覚していますが、亡き人と話をする経験をすると、仏の深い世界を通さなければ本当に心を通わすことはできない、ということが解ります。

浄土はつねに
わたしの背後にある

(川上清吉)

 背後にあるものは常識の眼では見えませんが、心の眼は、見ている対象と、見ている眼自身と、見さしめている浄土の三つを見ることができるのです。これも浄土の徳のおかげでしょう。

風と空気は ふたつなれど
ひとつの空気 ひとつの風で
わしと阿弥陀は ふたつはあれど
ひとつお慈悲の 南無阿弥陀仏
境涯に心が居ってはつまりません
浄土に心が居って境涯をするのでなけりゃなつまりません
これが南無阿弥陀仏であります
娑婆の世界はここのこと
極楽の世界もここのこと
これは目の幕切りをいうこと

(浅原才市)

 阿弥陀仏と私の関係を風と空気にたとえた才市同行。「浄土に心が居って境涯をする」というのは、「心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す」ということと同義でしょうか。また、浄土も娑婆も今現在のここのことであり、六道の迷いの世界に居ながら、心を浄土に置いている境地。「目の幕切り」とは見分けのことですから、信心は娑婆と浄土の深みの見分けができる人生観のことでしょう。

世の中は 鉄あり銅あり 金もあり 皆それぞれに 使命美し

(向坊弘道)

 具体的に「世の中は 鉄あり銅あり 金もあり」と見た上で、「皆それぞれに 使命美し」と浄土が見えるのです。具体的に見なければ浄土は見れません。

どんなに 小さなことでも
心 こめて
ととのえられたものには
心をうつ味が ある
美しさが ある
自然に
心が 暖まってくる
−うれしいネ−

(波北彰真)

 真心の美しさこそ、浄土そのものでしょう。美の概念は時代とともに変化することもありますが、たとえ真心が蔑ろにされるような時があったとしても、決してその美しさが消えることはありません。

ぼくが磨いたクツには、天上の星がうつるんだよ。

(某少年)

 丁寧に磨いた靴に、はるか彼方の星が映る。労働を通して感動がある。これが浄土を見る眼でしょう。

去年今年貫く棒の如きもの

(高浜虚子)

 阿弥陀仏は、生命・人類の歴史を貫くまごころの主体(寿命無量)であり、個々の時代・個々の現場を機会に衆生に働きかけて諸仏を見出す(光明無量)のです。これを浄土の菩提心といいます。

 ここに島田先生が浄土教の極意と受けとられた詩、書いてみます。

垣根の外の水の音 耳には慣れて忘れはするが
忘れた音の聞こえるように 昔の母が憶われる

(若山牧水)

 浄土の教えは楽しみながら聞法できる。まごころが伝わって来る。師は本当の浄土教は「これだ!」と仏説無量寿経のさとり感得世界を仰っしゃって居られます。知らず識らずの間に自然に法が聞こえて来るんですね。これが浄土感得世界の方程式のように憶われてなりません。洵に明瞭な真実具現の実感ですね。
 生活態度は万事万象、目の前の人達から受ける価値、値打、功徳を自分の生きて行く人生の理想徳として、法として、教として、道として、生きてゆく命の督として客観見知する智慧主体です。世自在王佛とは法蔵の師であり、私の理想徳であり、島田師は人生の羅針盤、生きる道しるべであると仰っしゃっています。

(吉村健治)

 亡き母の思い出が、「忘れた音」である浄土の声を呼びさまします。自分の決断で信心が決定するのではなく、たとえば、誰もが憶う母の面影を通して浄土が呼びかけて下さっているのです。

 なお、当たり前の話なのですが、仏像や仏壇の荘厳というのは、仏や浄土みずから形を示されたもので、本願成就のいわれに適った勝れた形なのです。職人はその意を汲んで製作されてみえるはずですから、経典の内容に照らして、一度じっくりながめてみて下さい。

 以上、浄土の様々な味わいを紹介させていただきましたが、最後に、ご質問の「存在と非存在の問題」に至る前の掲示板上でのやり取りを補足して掲載します。

> 「真理とは絶対唯一のもの」と考えていますが、どうでしょうか?

真理というものを現実以外に見出したとしたら、それは真理ではありません。
現実以外に特別な真理があるわけではないのです。
覚ってみれば、あるがままが真理なのです。これ以外に「絶対唯一のもの」と仰るような「もの」はありません。
しかし迷っている間は現実も真理も見えませんので、たとえ覚った人が「あるがままが真理」といっても、迷った人にとっては、あるがままが真理ではないのです。

覚れば現実が真理であり、迷っていた過去は抜け殻になります。
なお、真理は必ず「実」として報い、形を表わしますので、人は「真実」を見ることができます。
また真実は必ず人に応じますので「誠」が生れるのです。
親鸞聖人は、信心は「真実誠満の心」と仰いました。
「浄土から回向されたまごころを受け取る」
この心以外に真理も真実も無いのです。

ですから、<「真理とは絶対唯一のもの」と考えています>と言われた心根が、覚りに基づくものであれば、考える以前に真理は目の前に形を示しています。しかし、迷ったまま頭で考えるのであれば、真理はどこにも見出せないのです。

すべては浄土を見ること。浄土に生れようと願うこと。願いの中に成就があります。
如来の願いを学び信じれば、本願はおのずと我が願いとなり切り、それが生きる主体となった時には、浄土の徳により五濁悪世の世の中に真理が満ち満ちているのを見ることができます。



[index]    [top]

 当ホームページはリンクフリーであり、他サイトや論文等で引用・利用されることは一向に差し支えありませんが、当方からの転載であることは明記して下さい。
 なおこのページの内容は、以前 [YBA_Tokai](※現在は閉鎖)に掲載していた文章を、自坊の当サイトにアップし直したものです。
浄土の風だより(浄土真宗寺院 広報サイト)