平成アーカイブス  <旧コラムや本・映画の感想など>

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【コラム】

平成17年10月17日

祖母の思い出 2

肩に乗ってみえる先祖

 私事のコラムが続くが、先の祖母とのエピソードをもう一つ書かせていただきたい。

 名古屋は「芸どころ」と言われるように稽古事が盛んな地域で、祖母も例に漏れず若い頃から多くの習い事を学んだ。しかし晩年は体力も衰え、活躍した過去を知る人には想像もつかないほど記憶の方も[おぼろ]になってしまった。
 寺への貢献も同じで、かつては祖母が居るからこそ各種法要がつつがなく勤まると称えられたほどだったが、晩年は一つことを任されるのみとなった。それでもにこにこ笑いながら手伝いに勤しみ、法要が終わると私が車で祖母の家まで送ることになる。

 そんな折、「ご先祖さんはね、やっぱり肩に乗ってみえるよ」と祖母。
 私は「ふうん」と応えてはみたが、何を迷信めいたことを言うのかと反論したい気持ちになる。
「ご先祖様は、浄土にみえるんじゃないの?」
「でも肩の上にみえるよ。やっぱり」
 いくら法話を聞いても[]けると迷信が復活するのだろうかと訝しがったが、私はもう一つ質問することにした。
「ご先祖さんが肩の上にみえるのなら、肩はさぞ重いだろうね」
 すると祖母は、「ほんとに、重いよ」としみじみ言う。私はうーんと唸ってしまった。そして後は沈黙のまま祖母の家に到着。帰り道は、肩にかかる重みについて考えざるを得ない状況になってしまった。

 祖母は生まれてこのかた苦労しずめの人生だったと聞いている。あらゆる物事に全力投球する性格で、また多くの苦難を黙って引き受けてきたとも聞いている。その祖母が身体的に衰え、記憶も次第に衰えていく中で、肩にかかる先祖の重みを訴えられたのだ。すると……
 ああ、肩にご先祖さんが乗ってみえると言うのは、いわゆる「霊魂が」という迷信をいうのではなく、はるか遠い過去から営々と営まれ続けてきた真心の重みが肩にかかっている、ということを言うのだろう。今まではその重みを努力することで受け止めてみえたのだが、年を重ね、手を止めてみると、それは肩にかかる先祖の重みとして感じられたのではないだろうか。
 こうした深い想いから出た身体的表現は、受け取る側も深い想いとして解さないといけない。そうした深さを経験せず、言葉を実体化して捉えると迷信になってしまうが、これは受け止める側に問題があったのかも知れない。

永代の重さが身にしむ帰り道
 何気なく発せられた祖母の言葉が、また一つ私の宝物となった瞬間だった。

[Shinsui]

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浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)