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【コラム】

平成17年10月7日

祖母の思い出

優劣をつけない姿勢

 長命だった祖母も先月末に往生。様々な思い出が有縁の私たちの胸に息づいている。中でも幼きころ兄弟で別院境内の掃除をしたときのことが印象に残る。
「どっちがきれいに掃除できるか競争しよう!」と勝手に兄弟で競うことなり、祖母にその判定を仰いだ時のことだ。
「どっちも上手にできたよ」と、にこにこしながら兄弟ともに褒めてくれた祖母。
 しかし自分としては「どっちも上手」と褒められても満足はできなかった。隠れたところまで箒をあてた努力の跡を見てもらい、「僕の方が絶対きれいに掃除ができたよ」と主張したのだ。それでも最後まで優劣はつけない祖母だった。

 客観的に見れば、どちらがきれいに掃除できたかは一目瞭然だったろう。だがそれを言ってしまえば、弟の努力が報われないことになってしまう。どうして勝者を決めないのか当時は不思議に、また不満に思っていたが、今ならその理由は解る。

 ところで、子どもから大人に成長するにしたがい「どっちも上手にできたよ」と祖母のように皆を褒める言葉は少しずつ使われなくなる。代わって増えてくるのが勝者のみを称える言葉だ。
「○○よりも勝れている」「△△君より素敵」「□□で一番」、こういう言葉こそが褒め言葉であり、「どっちも勝れている」「ともに素敵」「みんな一番」という言葉はむしろ八方美人的で、どっちつかずの態度と解されてしまう。例えば恋愛で「A君もB君もどっちも好きだから両方と付き合います」では困るのである。

 以前{メロンの秘密} にも書いたが、私は勝負にこだわったり負けて傷つくことも大切な経験になると思っている。勝負を避け続けていては自分を磨き成長させる機会は失われてしまうだろう。しかしその前提として、人生の出発点においては「みんないい」という眼差しに護られていることを経験することだ。これを体得しないまま勝負にこだわると、何のために勝負するのか解らなくなるし、いずれ能力の衰える時期が来ても事実を受け入れられなくなってしまう。
 全てを受け入れる世界(如来世間)を胸に抱きつつ、勝ち負けのある現実(衆生世間)に飛び込んでゆく。こうした今の私の姿勢は決して自分で作ったものではない。祖母をはじめ一切諸仏に護られ育まれてきたものだろう。
 早くに還浄した弟とともに、今は祖母の優しさに感謝の念で一杯である。

[Shinsui]

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