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「八功徳水」とは

八正道の功徳を浄水にたとえて

【十界モニター】

「八功徳水」の源流はどこにあるのですか?


 八功徳水の果報

「八功徳水」という言葉があります。これは八種の勝れた特質(功徳)をそなえた水のことで、仏の浄土にある池はこの水で満たされているといいます。また「八功徳水」は別名「八支徳水」とも「八味水」「八定水」とも言われています。
 具体的な八種の特質としては種々の説があり、たとえば『往生要集』には――

「八功徳」とは、一には澄浄、二には清冷、三には甘美、四には軽軟、五には潤沢、六には安和、七には飲時に飢渇等無量の過患を除き、八には飲みをはりて、さだめてよく諸根・四大を長養し、種々の殊勝の善根を増益するなり。『称讃浄土経』に出づ。

『往生要集』25巻上

▼意訳(意訳聖典)
「八功徳」というのは、
一つには 浄らかに澄んでいること。
二つには 清く冷ややかである。
三つには 甘くおいしい。
四つには 軽く柔らかい。
五つには しっとりとうるおいがある。
六つには 穏やかで安らかである。
七つには 飲むと飢や渇きなどの量りない患いを除く。
八つには 飲みおわるとかならず身体を養い、いろいろのすぐれた善根を増す。
(補:『称讃浄土経』に依る)
とあり、『観経疏』には――

この水にすなはち八種の徳あり。一には清浄潤沢、すなはちこれ色入の摂なり。二には臭からず、すなはちこれ香入の摂なり。三には軽し。四には冷し。五には軟らかなり、すなはちこれ触入の摂なり。六には美し、これ味入の摂なり。七には飲む時調適す。八には飲みをはりて患ひなし、これ法入の摂なり。この八徳の義はすでに『弥陀義』のなかにありて広く説きをはりぬ。

『観経疏』定善義6 宝池観

▼意訳(意訳聖典)
この水には八種の徳がある。
一つには 清浄で光っている。これは視覚におさまる。
二つには 臭みがない。これは嗅覚に摂まる。
三つには 軽い。
四つには 冷たい。
五つには やわらかい。これは触覚に摂まる。
六つには 甘美である。これ味覚に摂まる。
七つには 飲むときに心地がよい。
八つには 飲んでうれいがない。これはこころに受け込む法に摂まる。
この八徳のいわれは、すでに《弥陀経義》の中に広く説き終わった。
と、四覚とこころにおさまる浄土の功徳と紹介があります。つまり八功徳水は、念仏において浄土の徳が「水」として回向され衆生の感覚を純化する、この果報を八種の功徳によって説くと解釈しているのです。
 するとこれらは、具体的にどんな功徳をもたらしてくれるものなのでしょう。私たちの生きる現場をどのように転じてくれる功徳なのでしょう。またこれらの果報をもたらす因縁、特に八功徳水を生んだ「因」は何なのでしょう。
 ここまで問うと正体が絞られてきた感もありますが、ひとまず目を外に転じ「八功徳水」の周辺をあたってみましょう。

 たとえば、阿耨達池や須弥山を取りまく七内海の水について。
 この水には「甘・冷・軟・軽・清浄・無臭・飲む時とき喉をいためず・飲みおわって腹をいためない」という八種の特質があるとされ、大雪山に住む鬼神が鉢に「八種の浄水」を入れて入滅目前の釈尊に「末期の水」として捧げた故事もあります(他にもクシナーラーに赴く途中のエピソードとして語られる経典もある/参照:{ブッダ最後の旅「#鍛冶工チュンダ」})。すると八功徳水は仏教以前の宗教の内容を転用したもの≠ニいう見方もできます。源流が他宗教とすると、他宗教の内容が仏教に入った可能性もあるのです。
 しかしそうだとしても驚くには当たりません。これは仏教ではよくある話です。仏教は他宗教と違い、あえて換骨奪胎かんこつだったいを行って物事の真実を明らかにしてきた歴史があります。他宗教では「新しい酒を古い皮袋に入れる」ことは避けていますが、仏教では対話を重視する意味でも大いに用いました。つまり、古い形式や他宗教の言葉を借りながら、そこに真実求道の精神によって新しい息吹を注入し、頑迷な説を打ち破ってゆくのです。
 たとえばバラモン教の「バラモン」という言葉を釈尊はあえて否定せず――

螺髪を結んでいるからバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのでもない。生れによってバラモンなのでもない。真理と理法とをまもる人は、安楽である。かれこそ(真の)バラモンなのである。

『ダンマパダ』393

と、かつては氏素性による差別的な意味で「バラモン」という言葉を用いていたものを、「真理と理法とをまもる人」と、修行によって保たれるバラモン(聖者)に意味を転じたのです。このように仏教は言葉を変えずに意味を変える&法によって真実を明らかにしてきました。すると「八功徳水」も換骨奪胎で他宗の転用が行われた可能性があるし、逆に他宗が仏教を転用した可能性もあります。

 いずれにしろ私たちが問いたいのは、自分の人生における「具体的な功徳」であり、同時に「八功徳水を生んだ源流」です。

 浄土三部経より

 具体的な功徳と源流を探るとなると、やはり浄土三部経典に依るほかないでしょう。まずは『仏説無量寿経』を引いてみます。

 また講堂・精舎・宮殿・楼観、みな七宝荘厳して自然に化成す。また真珠・明月摩尼の衆宝をもつて、もつて交露としてその上に覆蓋せり。内外左右にもろもろの浴池あり。〔大きさ〕あるいは十由旬、あるいは二十・三十、乃至、百千由旬なり。縦広・深浅、おのおのみな一等なり。八功徳水、湛然として盈満せり。清浄香潔にして、味はひ甘露のごとし

『仏説無量寿経』16 巻上 正宗分 弥陀果徳 講堂宝池荘厳

▼意訳(現代語版より)
 また、その国の講堂・精舎[ショウジャ]・宮殿・楼閣[ロウカク]などは、みな七つの宝で美しくできていて、真珠や月光摩尼[ガッコウマニ]のようないろいろな宝で飾られた幕が張りめぐらされている。
 その内側にも外側にもいたるところに多くの水浴する池があり、大きさは十由旬[ユジュン]から、二十・三十由旬、さらに百千由旬というようにさまざまで、その縦横の長さは等しく深さは一定である。それらの池には、不可思議な力を持った水がなみなみとたたえられ、その水の実に清らかでさわやかな香りがし、まるで甘露のような味をしている。

 ここにある<講堂・精舎・宮殿・楼観>は仏性展開の果報であり、いわば「劫初よりつくりいとなむ殿堂」。そして水はこの殿堂を生み出し関わってゆく心根です。娑婆(迷いの現実世界)では心根と結果が食い違い、こんなはずじゃなかった≠ニ悔いてばかりいる。人類の幸福を念じて築いたはずの文明が、いつのまにか強圧的になり、結果として生き辛い社会となるようなものです。
 しかし浄土では、行動を起こす時の感情や心根が、結果として生み出されたモノとよく調和し、願いと浄土が寸分もたがわず相応し、人々は満足しています(参照:{観察門 器世間「荘厳水功徳成就」})。また<清浄香潔にして、味はひ甘露のごとし>と称えられる心根が、七宝(七財・七法もしくは七菩提分)に飾られた<講堂・精舎・宮殿・楼観>に寄り添い流れています(参照:{弥陀果徳 十劫成道 「#浄土の基本的な内容」})。
 このように、浄土を念じて念仏すれば、娑婆の一切が浄土を映し、浄土の一切が娑婆を映していることが解ります。娑婆を娑婆と映して浄土あり、浄土を浄土と映して娑婆に生きる甲斐がある。すると娑婆の現実がよく見え、同時に浄土より回向された功徳が身に満ちてくるのです。

 次に『仏説観無量寿経』を引きます。

 次に、まさに水を想ふべし。水を想ふとは、極楽国土に八つの池水あり。一々の池水は七宝の所成なり。その宝柔軟なり。如意珠王より生じ、分れて十四支となる。一々の支、七宝の色をなす。黄金を渠とし、渠の下にみな雑色の金剛をもつて、もつて底の沙とす。一々の水のなかに六十億の七宝の蓮華あり。一々の蓮華、団円正等にして十二由旬なり。その摩尼水、華のあひだに流れ注ぎ、樹を尋りて上下す。その声微妙にして、苦・空・無常・無我・諸波羅蜜を演説す。また諸仏の相好を讃歎するものあり。如意珠王より金色微妙の光明を涌出す。その光、化して百宝色の鳥となる。〔その声〕和鳴哀雅にして、つねに仏を念じ、法を念じ、僧を念ずることを讃ふ。これを八功徳水想とし、第五の観と名づく。

『仏説観無量寿経』13 正宗分 定善 宝池観

▼意訳(現代語版より)
 次に極楽世界の池の水を想い描くがよい。
 極楽世界には八つの池がある。そのそれぞれの池の水は、七つの宝の輝きを映して美しくきらめき、実になめらかであって、それはもっともすぐれた宝玉からわき出ているのである。そして分れて十四の支流となり、それぞれがみな七つの宝の色をたたえている。その水路は黄金でできていて、底には汚れのない色とりどりの砂が敷かれている。一つ一つの流れには七つの宝でできた六十億もの蓮の花があり、その花の形はまるくふっくらとして大きさはみな十二由旬である。宝玉からわき出たその水は、花の間をゆるやかに流れ、また樹々をうるおしている。その流れからおこるすばらしい響きは、苦・空・無常・無我や六波羅蜜などの教えを説き述べ、あるいは仏がたのすがたをほめたたえる声となる。また、宝玉からは金色のすばらしい光が輝き出ている。その光は百もの宝の色を持つ鳥となり、そのやさしく美しい鳴き声は常に仏を念じ、法を念じ、僧を念じることをほめたてている。このように想い描くのを八功徳水想といい、第五の観と名づける。

 浄土経典であるから基本は『仏説無量寿経』と変りませんが、ここでは<その宝柔軟なり>と水の功徳の総合を称えています。すると、八功徳水の源流は「触光柔軟の願」にあると言えるでしょう。また「常受快楽の願」も関わってくる果報であることもわかります。なおこの源流の願が建てられた理由は、我々の生きざまが存在本来の智徳を成就していないところから、存在本来の側から至心・信楽・欲生の本願必然の道程を経て諸願に展開したのです(参照:{至心信楽の願})。
 これでほぼ源流は解りましたが、八という数字の謎は未解明であり、因果の道程も明らかではないので、もう少し経典を紐解いてみましょう。
 <如意珠王より生じ>
「如意珠王」は「もっともすぐれた宝玉」と訳されていますが、これは欲望を刺激する金銀財宝をいうのではなく、受け取る側の眼力と求道心が宝なのです。珠王はあらゆるモノや物事を宝に転じてしまう打ち出の小槌。そして人生最大の宝玉は無上菩提心であり真実信心です。これは自分勝手に作った主義や思想(自力)ではなく、本来の側より必然として回向されるもの(他力)です。譬えとしては、浄土の菩提心が水という形をとって私たちの元に回向され(届けられ)、感覚を純化し、我が身に満ちるのです(参照:{観察門 器世間「荘厳種々事功徳成就」})。
 <分れて十四支となる>
 十四支は、『仏説無量寿経』にある表現で、<みなまさに往生すべし>と阿弥陀仏の浄土への往生を約束された十四の代表的な国土(十四仏国)を指します。具体的には、「この世界」はじめ「遠照」仏の国、「宝蔵」「無量音」「甘露味」「龍勝」「勝力」「師子」「離垢光」「徳首」「妙徳山」「人王」「無上華」「無畏」仏の国です。({▼資料参照」}
 <黄金を渠とし、渠の下にみな雑色の金剛をもつて、もつて底の沙とす>
 (その水路は黄金でできていて、底には汚れのない色とりどりの砂が敷かれている)
 上記のように、浄土の水は柔軟心を顕しています。しかしこの柔軟心の底には金剛心の支えがある、そのことを金剛の砂で譬えているのです。やさしさと弱さが同居するような風見鶏的な柔軟心でないことを言うのでしょう。浄土の住民は、物腰や物言いは柔らかで、人当たりも好ましく、柔軟な発想をしていますが、仏法と歴史と経験に裏打ちされた、腹の据わった金剛心がその人生を貫いています。<雑色の>とは、全体としては金剛心でも、その発揮には各人各処で個性があることを言うのでしょう。

 その他、「花」は「人生成就の華」であり、「樹々」は行為や修行・修行者を表し、「鳥」は「仏の権化」であることが解れば自ずと経意は顕現してきます。特に、みな仏法僧の三宝を褒め称えている、ということは、現実で経験すること全てが仏法僧功徳の顕現であり、人生成就の証明として教えが成り立っていることを顕しているのです。

『仏説阿弥陀経』を引きます。

 また舎利弗、極楽国土には七宝の池あり。八功徳水そのなかに充満せり。池の底にはもつぱら金の沙をもつて地に布けり。

仏説阿弥陀経3 正宗分 依正段

▼意訳(現代語版より)
 また舎利弗よ、極楽世界には七つの宝でできた池があって、不可思議な力を持った水がなみなみとたたえられている。

『小経』は短いながらも浄土の功徳が簡潔にまとまっており、特に称名念仏の功徳と、<円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智>という現実の苦悩を功徳に転じる智慧に満ちていますが、ここでは『大経』『観経』の説を出るものは見られません。

 八功徳水となった八因は

 以下『観経疏』の説を採り、諸師に随い具体的な功徳を追ってみることにします。

一には清浄潤沢、すなはちこれ色入の摂なり。
(清浄で光っている。これは視覚におさまる)
具体的な功徳:人間や物事を見る目を浄化する。正しい見解を持つ。長所と欠点は裏表で、どの人にも尊い命が宿り、どんな物事にも尊い意味がある。御同朋・御同行を見る眼を実現する。
二には臭からず、すなはちこれ香入の摂なり。
(臭みがない。これは嗅覚に摂まる)
具体的な功徳:人間や物事の本質をぎ取る嗅覚が浄化される。胡散うさん臭い人や、きな臭い社会の問題点を嗅ぎ取り、浄化し、真実仏法の香りを漂わせる。
三には軽し。
具体的な功徳:三毒煩悩の愚癡ぐちおろかさによって暗く重くなっていた身を浄化し、軽快にする。
四には冷し。
具体的な功徳:三毒煩悩の貪欲とんよく愛欲によって執着し熱く燃えた身を浄化し、冷静にする。
五には軟らかなり、すなはちこれ触入の摂なり。
(やわらかい。これは触覚に摂まる)
具体的な功徳:三毒煩悩の瞋恚しんに怒りによって硬直した身を浄化し、柔軟にする。
六には美し、これ味入の摂なり。
(甘美である。これ味覚に摂まる。)
具体的な功徳:人間や社会の長所・欠点を味わう味覚を浄化させる。食事だけではなく、人生に対する偏食・偏見をなくし、あらゆる物事に対して深く本質を味わう味覚を実現する。
七には飲む時調適す。
(飲むときに心地がよい。)
具体的な功徳:鬱々と落ち込んでいた身が浄化され、常に心地よい智的快活が実現する。
八には飲みをはりて患ひなし。
(飲んでうれいがない。これはこころに受け込む法に摂まる)
具体的な功徳:自分が行った事に関して、自慢したり心の傷として後顧に憂いを残していた身を浄化し、すっきりと晴れ晴れしい心地を実現する。

 さらなる深読みは可能でしょうが、以上で基本はおさたと思います。こうした八功徳が甘美な水として私たちに回向されることは、まことに我が身のあさましき機に添う表現であり、性根を失っていた私の性根となってはたらく浄土の徳を領解しやすく説かれた譬えです。

 しかしこのままではどうしても功徳水の「八」となった因が解りません。そこであらためて、仏教全体において功徳を生むことが可能な八因を列挙してみると――「八音」「八戒斎」「八正道」「八聖道分」「八解脱」「八自在」「八大人覚」「八忍八智」「八念」「八智」「八供養」等。この中で、大功徳を生む根本的な八因となると、やはり諸師の解釈通り「八正道/八聖道分」ということになるでしょう。

……初期の大乗仏教では、自分の命を産み出した根源の形のない法性とか真如をさとることを目的としています。しかし後期の大乗仏教は、現に生きているこの身の上に、法性真如の徳を華と開くことを目的として、五十二段の仏を説いています。さらに浄土教では、五十二段の仏は人間関係においての人間像ですから、それを不徹底として、社会的自覚に立った人間像としての五十四段の世自在王仏、世において(世とは世間のことで、社会のことです)無碍自在に生きる精神的王者を理想の人間像としているのです。このように小乗仏教、大乗仏教、浄土教では、それぞれ目的のさとりが違うから、その道も違って来るのは当然でしょう。

 第一の「正見」とは、「見」は考えとか思想で「正見」は正しい考えといわれていますが、正しい人生観といった方が適切ではないかと思います。それでは何を基準として正しいというのかというと、原始仏教では「涅槃に順う」といっていますが、浄土教では、浄土を帰依としてそこに立って開けた正しい人生観ということでしょう。

  第二の「正思惟」とは、「思惟」は分別とか考えることですが、「考える」には二通りあって、頭に手を当てて考えるのを分別思惟といい、胸に手を当てて考えるのは、自分の深い本心の声に耳を傾けているのですから、自性思惟といっています。何事をするにも常に「わが魂の底深く名告り続け」ている浄土の声を聞き、失わぬようにして、自分の置かれている周囲の状況を能く見て、そこでどう生きたらよいか、自分の行為を決定することです。今日の言葉でいえば、分別思惟はカントのいう純粋理性で、迷いの「識」のことであり、自性思惟はさとりの「智」で、道徳理性(または実践理性)をさらに自己脱皮して深めた慧に裏づけられた智のことといえばよいでしょうか。

 第三の「正語」とは、正しい言葉のことです。正しい言葉ということは、腹にもないことを言うのではなく、自分のまごころいっぱいの言葉、本当に腹から出た言葉、それが正しい言葉でしょう。

 第四の「正業」とは、正しい行為のことです。この正業と正語と正思惟の三つは、身口意の三業のことをいっているのですが、浄土の光に照らされると正しい人生観が産まれ、我執を離れたまごころの智慧が産まれてくるから、正しい考え、正しい言葉、正しい行為が修せられてくることをいっているのでしよう。

 第五の「正命」とは、正しい生活のことで、その反対を邪命といって厳しく誡めています。出家仏教では信施による生活以外を邪命としています。たとえば生活のためにものを作ったり、ものを売ったり、また吉凶禍福を占ったり、自分に与えられたものでないものを食べたり、自分に徳がないのに、ひとに信施をせねばならぬように振舞ったり仕向けたりすることなど、たくさん挙げています。
 私たち在家仏教者では、事務繁多(余り忙しい仕事をすること)を誡めています。私が若い時、母は口癖のように「一日は世を知れ、一日は身を知れ、一日は眼を外に向けて世の動きを見ないと生存競争に立ち遅れる。一日は眼を閉じて、自分の生き方はこれでよいか、何のために自分は生きているのかと、わが身の一大事を省みねばならぬ」といっていました。
<中略>
 また今日では信徒の方はもちろんですが、一般の人も生きるためには社会人として何らかの職業に就かねばなりませんが、職業と人間完成の道が二つに別れている人が多いようです。これも邪命になるのでしょう。『大無量寿経』では、人間としての道と職業人としての道は、共に一生卒業のない道と説かれていて、この二つの道は並行してあるのではなく、「仕事が人を育てる」といわれるように、日常生活の外に人間完成の道があろうはずがありません。生活即仏道です。昔は剣術といわれていたのが、今は剣道に、書き方が書道に、お点前が茶道に、生け花が華道に呼び名が変ったのは、手わざであった術がそのまま人間完成の道に高められたからでしょう。私たちはとかく教師を永く勤めると、教化意識が人間を占領し、巡査は巡査根性になり、商人は商売根性、農民は農民根性になって人間であることを忘れてしまいがちです。

 第六の「正精進」とは、まごころ込めて進むことです。まごころ込めて力いっぱいせずにおれぬことを正精進といいます。

 第七の「正念」とは、「憶念の心常」のことで、人生の方向を間違わぬように、自分の道一つに命を懸けて進んで行くことです。

 最後の「正定」とは、心が定まることです。

島田幸昭 著『阿弥陀経探訪』より

「八正道」が「八功徳水」の因であるという説は、大所より見れば必然で納得しやすいのですが、『往生要集』や『観経疏』の説との関連は完全ではありません。しかし、『往生要集』と『観経疏』の説が微妙に異なっていることを見ると、当初の説が時代とともに変化した可能性も高いのです。すると、経典編纂時には「八正道」の果報が「八功徳水」であることは自明の理だったものが、時代を経て新たな解釈が加わり、『往生要集』や『観経疏』にある説となった、という流れも否定はできないでしょう。

 そこで、従来の解釈を受け継ぎながら、功徳水の源流が「触光柔軟の願」「常受快楽の願」にあり、八功徳に展開した因・徳目が「八正道」である≠ニいう視点を明確に打ち出す解釈を試みると――

1) 正見を徳目とした水ゆえに、浄らかに潤い澄み、柔らかく周囲に照り映える。
浄土を帰依として、そこに立って人間や物事や歴史の真心を見ることが適う。邪見が浄化され、正しい人生観が得られる。長所と欠点は裏表で、どの人にも尊い命が宿り、どんな物事にも尊い意味があることを見抜ける。御同朋・御同行を見る眼を実現する。
2) 正思を徳目とした水ゆえに、まるで甘露のような味で、飲むときに患いなく、軽く冷たく柔らかい。
正見によって得た人生観にもとづき正しい智慧が得られる。むさぼり(貪欲)・いかり(瞋恚)・おろかさ(愚癡)に患っていた分別意識が浄化され、自分の立っている場が見え、軽快で冷静で柔軟な思惟が適う。常に心地よい智的快活が実現する。
3) 正語を徳目とした水ゆえに、水音は美しく響き、臭くなくさわやかな香りがし、飲むとき喉や腹をいためない。
正見によって得た人生観にもとづき正しい言葉が得られる。嘘・二枚舌・悪口・腹にもない綺語などの悪臭をはなっていた口が浄化され、まごころいっぱいの言葉、本当に腹から出た言葉ばかりが発せられる。常に仏法に適った心地よい会話が実現する。
4) 正業を徳目とした水ゆえに、身にそそげば心身ともにさわやかになって心の染れも除き去られる。
正見によって得た人生観にもとづき正しい行為が修せられる。押し付けがましく自慢したり鬱々と落ち込んでいた身が浄化され、常に心地よい身体的快活が実現する。
5) 正命を徳目とした水ゆえに、飲めば生活にうるおいを与える。
正見によって得た人生観にもとづき正しい生活を送ることができる。忙しいだけで日々虚しく過ごしていた生活が浄化され、生活そのものが仏道と成ってゆく。
6) 正精進を徳目とした水ゆえに、飽きることなく生活全般に力を与える。
正見によって得た人生観にもとづき正しい努力を精一杯行うことができる。自堕落に萎えてしまう性根が浄化され、努力が長く強く継続する。
7) 正念を徳目とした水ゆえに、失ったり枯渇こかつすることがない。
正思から正精進にもとづいて常に仏を憶念おくねんすることができる。正しい道を学び修しながら忘れてばかりの念を浄化し、真実白道を命がけで突き進むことができる。
8) 正定を徳目とした水ゆえに、飲んでむせび逆流することがない。
上記の七正道にもとづいて心を定めることができる。注意力散漫で迷ってばかりいる精神が統一され、本願力回向の必然の流れに喜び随い、御同朋・御同行社会を実現していく。
となります。

 先にも述べましたが、「八功徳水」において私たちが問いたいのは、自分の人生における「具体的な功徳」であり、同時に「八功徳水を生んだ源流」です。仏教の功徳を自分の身に満たし生活に展開するためには、本願に念じられて念仏すること。そして八功徳水の源流である「触光柔軟の願」「常受快楽の願」など本願力の因縁果報を尊むことでしょう。清浄柔軟なる功徳水は、流域が広がり様々な紆余曲折うよきょくせつを経ていくのですが、その本質は不変です。私たちはその功徳の大なるを称え、ありがたく素直に頂くこととしましょう。

七宝の宝池いさぎよく 八功徳水みちみてり
無漏の依果不思議なり 功徳蔵を帰命せよ

『浄土和讃』45 讃弥陀偈讃

 資料

 弥勒菩薩、仏にまうしてまうさく、「世尊、この世界において、いくばくの不退の菩薩ありてか、かの仏国に生ぜん」と。仏、弥勒に告げたまはく、「この世界において六十七億の不退の菩薩ありて、かの国に往生せん。一々の菩薩は、すでにかつて無数の諸仏を供養せること、次いで弥勒のごときものなり。もろもろの小行の菩薩および少功徳を修習せんもの、称計すべからず。みなまさに往生すべし」と。仏、弥勒に告げたまはく、「ただわが刹のもろもろの菩薩等のみかの国に往生するにあらず、他方の仏土〔の菩薩等〕も、またまたかくのごとし。その第一の仏を名づけて遠照といふ。かしこに百八十億の菩薩あり、みなまさに往生すべし。その第二の仏を名づけて宝蔵といふ。かしこに九十億の菩薩あり、みなまさに往生すべし。その第三の仏を名づけて無量音といふ。かしこに二百二十億の菩薩あり、みなまさに往生すべし。その第四の仏を名づけて甘露味といふ。かしこに二百五十億の菩薩あり、みなまさに往生すべし。その第五の仏を名づけて龍勝といふ。かしこに十四億の菩薩あり、みなまさに往生すべし。その第六の仏を名づけて勝力といふ。かしこに万四千の菩薩あり、みなまさに往生すべし。その第七の仏を名づけて師子といふ。かしこに五百億の菩薩あり、みなまさに往生すべし。その第八の仏を名づけて離垢光といふ。かしこに八十億の菩薩あり、みなまさに往生すべし。その第九の仏を名づけて徳首といふ。かしこに六十億の菩薩あり、みなまさに往生すべし。その第十の仏を名づけて妙徳山といふ。かしこに六十億の菩薩あり、みなまさに往生すべし。その第十一の仏を名づけて、人王といふ。かしこに十億の菩薩あり、みなまさに往生すべし。その第十二の仏を名づけて無上華といふ。かしこに無数不可称計のもろもろの菩薩衆あり、みな不退転にして智慧勇猛なり。すでにかつて無量の諸仏を供養したてまつりて、七日のうちにおいてすなはちよく百千億劫に大士の修するところの堅固の法を摂取す。これらの菩薩みなまさに往生すべし。その第十三の仏を名づけて無畏といふ。かしこに七百九十億の大菩薩衆、もろもろの小菩薩および比丘等の称計すべからざるあり、みなまさに往生すべし」と。仏、弥勒に語りたまはく、「ただこの十四仏国のなかのもろもろの菩薩等のみまさに往生すべきにあらざるなり。十方世界無量の仏国より、その往生するものまたまたかくのごとし、はなはだ多くして無数なり。われただ十方諸仏の名号と、および〔それらの仏国の〕菩薩・比丘のかの国に生ずるものを説かんに、昼夜一劫すともなほいまだ竟ることあたはじ。われいまなんぢがために略してこれを説くのみ」と。

『仏説無量寿経』46 巻下 正宗分 釈迦指勧 十方来生

▼意訳(現代語版より)
【四六】 弥勒菩薩がお尋ねした。
「世尊、この世界から、不退転の位にある菩薩がどれくらい無量寿仏の国に生れるでしょうか」
 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「この世界からは、六十七億の不退転の位にある菩薩がその国に往生するであろう。その菩薩たちはみなすでに数限りない仏がたを供養しており、その位は、弥勒よ、そなたと同じである。その他、行の劣った菩薩やわずかな功徳しか積んでいないものも数えきれないほどいるが、どのものもみなその国に往生するであろう」
 釈尊が続けて仰せになる。
「この世界のものだけが無量寿仏の国に往生するわけではない。他の仏の国からもまた同様に数多くその国に往生するのである。
第一に遠照仏の国からは、百八十億の菩薩がみな往生するであろう。
第二に宝蔵仏の国からは、九十億の菩薩がみな往生するであろう。
第三に無量音仏の国からは、二百二十億の菩薩がみな往生するであろう。
第四に甘露味仏の国からは、二百五十億の菩薩がみな往生するであろう。
第五に龍勝仏の国からは、十四億の菩薩がみな往生するであろう。
第六に勝力仏の国からは、一万四千の菩薩がみな往生するであろう。
第七に師子仏の国からは、五百億の菩薩がみな往生するであろう。
第八に離垢光仏の国からは、八十億の菩薩がみな往生するであろう。
第九に徳首仏の国からは、六十億の菩薩がみな往生するであろう。
第十に妙徳山仏の国からは、六十億の菩薩がみな往生するであろう。
第十一に人王仏の国からは、十億の菩薩がみな往生するであろう。
第十二に無上華仏の国には、数えきれないほどの菩薩がいて、みな不退転の位にあり、すぐれた智慧をそなえている。すでに数限りない仏がたを供養し、普通なら百千億劫にもわたって修めなければならない尊い行を、わずか七日のうちに修めたほどのすぐれた菩薩であるが、これらの菩薩もみな往生するであろう。
第十三に無畏仏の国には、七百九十億のすぐれた菩薩たちをはじめ、行の劣った菩薩や修行僧も数えきれないほどいるが、みな往生するであろう」
 続けて釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「この十四の仏の国のものだけが往生するわけではない。数限りないすべての仏の国からも同じようにその国に往生するのであり、その数は実に限りなく多い。わたしが、ただそのすべての仏がたの名とそれぞれの国から無量寿仏の国に生れる菩薩や修行僧の数をあげるだけでも、夜となく昼となく、一劫という長い間をかけても説き尽すことはできない。今はそなたのために、そのほんの一部を説いたに過ぎない」


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