仏教は「自分らしく生きる」ことを説く宗教ですか?
最近、「自分らしく生きる」とか「自分探し」という言葉を盛んに耳にします。またこうした課題が仏法に照らして語られる機会も増えてまいりました。確かに、「自分らしく生きられない」という状況や「本当の自分が見つからない」という不安は早く取り除きたいでしょう。仏法はまさにそうした課題から出発していると言っても過言ではなく、機と法が一体となって新たな生き方が提示できればこれほど嬉しいことはありません。
しかし具体的に語られる状況を見てみると、「自分らしさ」や「自分探し」を求める姿勢そのものが地に足がついていないのではないか、仏教を介して道が語られても歴史に根が張っていない理論が多いのではないか、と思われてなりません。本当はどこにおいて「自分らしく生きる」ことを達成すればよいのでしょう、どこに本当の自分を見出せばよいのでしょう。
仏教ではこの問いに、大きくわけて二種の解答を示してきました。それは現代では「霊性的自覚」と「場所的自覚」と言われるものですが、仏教ではこれを理性の面ではなく真心の面で語ってきました。これらは人間の機に応じて説かれたところもありますが、仏教の発展史の中で育まれ脱皮してきた経緯もあるのです。
ゴータマ・シッダールタ(後の釈尊)の出家から初期の大乗仏教までは、解脱と法性真如の違いや、現象の「無常・苦・無我・不浄」と悟りの「常・楽・我・浄」の立場の違いはあるとはいえ、ともに出家が優先で、現実社会を迷いや執着の場と断じ、家や社会のしがらみや執着を出て修行に励むことを薦めます。つまり、辺鄙な地域的慣習や執着によってできた社会や家庭を捨てて本当の自分を探したい、周囲に左右されず自分の人生は自分で選び造ってゆこう、という道です。釈尊もシャカ族の王子として生まれながら、様々な人生の問題に悩んだ挙句、王子の位を捨てて出家修行の旅に出られました。
この時釈尊の胸のうちに何が去来していたのか、後世に編集された経典では単に、無常の世を厭い常住の悟りを求める、程度のことしか書き残されていませんが、本当はもっと複雑な事情があったはずです。また当時の社会的価値観の中では、王位などの世俗のことは小さなことで、世俗の問題を超えた悟りを問題とし、世俗に居ては悟り得ない境地を求めて道を求められたのでしょう。
現代人の中にも、社会的慣習にがんじがらめになっていたりすると、「現状から抜け出したい」と願い、また「今の環境に限定されない自分は一体何なのだろうか」と考えたりします。社会的慣習というのは、たとえば「男らしく」「女らしく」という性差の押し付けや、「学生らしく」「先生らしく」「官僚らしく」「サラリーマンらしく」「僧侶らしく」などという職業的な決めつけです。現在はこうした「○○らしく」あることを打ち破り、「自分らしく」生きている人を賛美する傾向にあります。たとえば「暴走する若者の気持ちが解る、先生らしくない先生」とか、「堅苦しくないくだけた、僧侶らしくない僧侶」というと、それは好意的に受け取られ、「いかにも官僚らしい答弁」とか「いかにも僧侶らしい言い方」という場合は、「職業的に決まり切った行動しかできない、型にはまった堅物」というマイナス面を指す場合が多いようです。
確かに、他人から押し付けられた性差や、職業上の狭い世界に閉じ込められたりすると息苦しく感じます。また、自分でものを考えず社会通念にあぐらをかいて指図する人間には反発を覚えるでしょう。「私を型にはめないで。私は私らしく生きたい!」とか「敷かれたレールの上を走るだけの人生なんて意味が無い!」という叫びは、現代社会に暮らす人間共通の問題意識ではないでしょうか。この「本当に自分らしく生きたい」という心こそ生命の根源であり、「一切衆生悉有仏性」と見出された仏性の正体なのです。こうした仏性を自らに見出し、一切の人々に見開いていくことを「霊性的自覚」といいます。
さて、こうした「霊性的自覚」ですが、これを体験的に深めていきますと、どうしても越えられぬ大きな壁に阻まれ、生命力が先細りしてゆくことになります。なぜなら、霊性的自覚に留まっていては、もっと重要な「場所的自覚」が見出せないからです。
たとえば、性差や社会的場を「超えた」とされる場に見出したはずの仏性は、具体的には何を指すのでしょう。涅槃という言葉はあっても、その内容が生活の場や歴史現実において具体的に提示された例はありません。ただ現実を「日日是好日」と受け入れるだけでは、人類の本音の中の本音を聞くこともできず、目ざすべき社会や歴史の方向性を定めることはできません。
また性差や社会的立場を無視した「自分らしさ」は、どこにおいて華を咲かせれば良いのでしょう。そもそもその華を咲かせる養分は、どこから供給されるというのでしょう。どこに根を張れば仏性の華を咲かせることができるのでしょう。「男らしさ」「女らしさ」や職業上期待される人格面を度外視して、私はどこでどのように成長することができるのでしょう。これらは「霊性的自覚」では何一つ明らかにならないのです。明らかにならない理由は唯一つ、看板は立派でも内容が無いからでしょう。本当は、大袈裟な看板にだまされず、生活の足元にあるたった一つの宝を見出すことが肝心なのです。
では人間の本当の育ちはどこにおいてなされるのでしょうか。
仏性の華を咲かせる養分は理想世界や空中から得られるものではありません。先祖代々、社会的な責任を背負いながら、自らを振り返りふりかえり来た宿業の場から養分を得るのです。職業上期待される人格を目指しながら、そのしがらみの泥の中から人間本来の仏性の育ちが確認できるのです。世俗を「超えた」とされる場は無為自然に還る道であり、ここは人間として人格が育つ場ではありません。世間を無視した求道は自己満足の道であり、龍樹菩薩はこれを「地獄に落ちるより悪い」と指弾しています。
本当は、私が生まれ育った家庭環境や自ら選択した社会環境において、私に期待され課せられ続ける責任が蓮華座となって私の仏性を育てるのです。ここが私の道場、自己形成の場です。
たとえば「男らしさ」ということも、他人が押し付けるステレオタイプ的な男らしさを追うのではなく、実際に女と出あい、男とは違う性質に気付き、相手から照らされることで「男らしさ」の本当の徳を得るのです。ここには男尊女卑という歴史的宿業がありその関係性を汚してきた側面もあるのですが、宿業を離れて人間の育ちはありません。人間は試験管の中で純粋培養されるわけではないのです。生命の進化の過程で性を分かち、伴侶を選ぶ泥臭い行為によって種族を維持発展させてきたことを鑑みれば、「男らしさ」や「女らしさ」が「自分らしさ」の根幹にあることは否定できません。この点を鑑みないことが出家仏教の限界なのです。
職業についてみても同様で、各々の職の歴史によって皆が期待するところが、おのずと私の蓮華座となり、これが私の自覚となって生命全体との共感が生まれる、この座の徳が光を放って私という人間を育ててくれるのです。具体的にいえば、「老舗店の暖簾を守る」「職の名を汚さない」等の真摯な努力が同時に社員の人間性を育てていくことを指します。これは職種の表面的・個別的な「らしさ」に執われるものではなく、皆が広く本音で集いあえる同朋社会を念じる中で、癖のある職が一即一切という普遍的な課題に広がって人間の成就が適ってくるのです。人類の歴史に学び社会的責任を自覚する場が私の立つ場であり、「足元の浄土に照らされる」という具体的内容です。
煩悩成就せる凡夫人、煩悩を断ぜずして涅槃を得、すなはちこれ安楽自然の徳なり。淤泥華といふは、『経』(維摩経)に説いてのたまはく、高原の陸地には蓮を生ぜず。卑湿の淤泥に蓮華を生ずと。これは凡夫、煩悩の泥のうちにありて、仏の正覚の華を生ずるに喩ふるなり。これは如来の本弘誓不可思議力を示す。
『入出二門偈』2
この座は決して家庭や社会を離れた場には存在しません。また頭で考えた理想世界の場にも存在しないのです。無明・煩悩の宿業の真只中で、泥田に蓮華が咲くように、宿業の泥を養分としながらも宿業に塗れない人間の華を咲かせることが、後期大乗仏教の教えであり、浄土経典の示す人間完成・自己形成・社会創造の道です。性差や現実社会の職業上の問題点を抱えながら、個別の問題点を私の課題とし、広大会の場を念じて課題に取り組めば、宿業の泥はそのままでありながら、全てを養分にかえてわが人生の成就とすることができるのです。
もちろん、今の社会環境は決して理想世界ではありませんし、どこまでも宿業はついてまわります。業の深い人間が社会を造っているのですから、業の泥に落ち込んで沈んでしまうことにもなりかねません。
たとえば
『出三蔵記集』巻十四 鳩摩羅什伝
私たちはどこまでも蓮華座の徳に育てられるのであって、宿業の臭泥そのものを浄化し尽くす能力はありません。信徒が恒に浄土を念じるのは、臭泥に落ち込むことのない浄土の徳に照らされ、どんな厳しい境遇の中でもお育てにあずかる、そういう境地が退転しない証しでもあるのです。
しかしもし、我執や自分の所属する辺鄙な場に閉じて生きれば、一瞬にして臭泥に取り込まれてしまい、仏性は三途(地獄・餓鬼・畜生)の黒闇に塗り固められて窒息してしまいます。
皆がともに生きる環境の中で、家庭や職場の中で、志を同じにしたり、また対立する中で、個々の責任の場が全体の場に開かれれば、個々の癖はそのまま他を映す鏡となり、他の癖に照らされて個性となります。正定聚の菩薩は一切衆生との関係において行動を起こすのですが、そのためにはなるべく多くの人や組織や世界と交流することが必要になります。
阿弥陀仏の浄土が「二百一十億の諸仏の刹土」を学び摂取して建立したということも「十万億の仏土を過ぎて世界あり」ということも、たとえば「男の世界」や「女の世界」「子どもの世界」「青年の世界」「大人の世界」「芸術の世界」「科学の世界」「経済の世界」「スポーツの世界」「日本の世界」「インドの世界」「三昧の世界」といった、多くの世界の深みから学び、またそれらの有機的なつながりを鑑みながら止揚し、全生命や歴史を貫く願いを成就させた世界である、ということを顕わしているのでしょう。