賭け事が止みません。どうしたら良いでしょうか?
一般的に、賭け事に夢中になると自分の人生どころか家庭まで狂わすことになり、ひどい時には刃傷沙汰にまで及ぶ事例さえあります。多くの宗教では、そうした人間の弱みを知るからこそ賭け事は控えるように勧めますし、禁止する宗教もある程です。私も縁者に賭け事は勧めませんし、特に宗教者たるものは賭け事は避けるべし、との持論もあります。しかし現実には、多くの僧侶が賭け事にうつつを抜かしているありさまで、実に情け無いことだと思います。
ところで、なぜ多くの宗教において賭け事が奨励されないのかと言うと、単に金銭的な問題だけではなく、精進努力している人間にとっては因縁果報の法則を実体験する際の邪魔になるからです。仏教で言えば、菩提心・求道心の障げになるからです。
かつて釈尊が六師外道を批判したのも同様の理由からでしょう。道徳を否定したり無因論や唯物論・懐疑論に執われれば、自分の人生が行き当たりばったりになり、創造の法則や道ゆきが覚れません。また逆に、宿命論に執われたり極端な自己制御に走れば、自分自身が今現に生きていることに意味を見出せなくなります(参照:{六師外道の思想について})。つまり釈尊は六外道について、客観的に一々の誤謬を指摘するのではなく、充実した人生を歩むためには障害となる思想・認識である≠ニ、総じて言えば人生観の誤りを指摘しているのです。
賭け事は確率が支配する世界であり、結果は「無因」が原則です。これが破られればむしろイカサマとして責められてしまいます。それゆえ、賭け事に夢中になると自分の人生観が無因論に陥る懸念があり、また時として、道理を踏まえない宿命論が頭をもたげる事もあります。こうした不条理な場に留まり過ぎれば、人生観の基軸が失われてしまうでしょう。
ただ人情として、皆が賭け事をしたがる気持ちも解ります。社会に決まりごとが多くなると様々な約束事から逃れたい≠ニいう感情が湧き、あえて危険を犯したい≠ニいう欲求も出てくるのです。そういう意味では、賭け事は社会の安寧の上に築かれたガス抜き文化であり、ジェットコースターに乗りたがる人たちと同様の心理なのでしょう。
そこで本題ですが、「賭け事をやめたい」と少しでも思っている人に対しては、以上の事柄を踏まえ、私は常日ごろ「どうせ賭けるなら、ちびちび賭けず、自分の持っているもの全てをかけなさい」と勧めます。危険を犯したいのなら、けちな金額など賭けず、全財産をかければ良いのです。いや、金なら代わりが利きますから、掛け替えのない自分の命を賭ければ良いでしょう。負けたら死ぬ覚悟で賭けるのですから、これほど面白い賭けはないはずです。
では何に賭けるのか。どうせ命まで賭けるのですから他者に賭ける道理はありません。自分の人生に賭けたら良いのです。自分の人生に自分の命や全財産を賭けてみたらいかがでしょう。
これは言葉の遊びではありません。「生きるか死ぬか絶対絶命の場に立つ者には、ちっぽけな賭けなどする余裕はない」と言いますが、本当は皆、生まれた時からずっと自分の人生に全生命・全財産を賭け続けているのです。そして、どんな時もどんな場面でも皆、生きるか死ぬか絶対絶命の場に立っているのです。賭けごとに熱中する人は、案外人間の本質に近い場所にいるのかもしれません。
本当の危険は目の前にあります。そして本当の大当たりは、自分の人生が全開放され、全てが宝物に転じられてゆく体験にあります。退屈な日常から本当に開放されるためには、むしろ小さな賭け事から離れた方が早道なのです。