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仏壇に関する素朴な疑問

偶像を崇拝して仏教を理解できるのか

【十界モニター】

偶像の入った仏壇を拝んで、果たして仏教を理解できるか?


 この問の答えになるかどうか分かりませんが、ある信徒さんの話をしましょう。

 最近の仏壇は本尊の部分が狭く付属品がたくさんついています。しかし明治時代以前のはこの部分が大きく寸法が取ってあり、余裕が感じられます。ある信徒さんで、そうした古い仏壇を拝んでみえたお婆さんがみえました。灯明は珍しく油を使ってみえましたが、感心させられたのは、常にほこりひとつなく仏具が光り輝いていたことです。
 金属は磨き粉を使えば誰でもある程度はきれいに磨けます。しかしそのお婆さんの磨いたものを見ると、真鍮が透明になったような錯覚を覚えるほどでした。大袈裟な表現でなく、純金と比べても圧倒的に輝いていました。

 「いつも日なたぼっこしながら、丁寧にやってみえました」と、家族の方から言われ、ああ、これが心を込めてということなんだな、とはっきり分かりました。

 お磨きは力一杯やってもうまくいきません。金属の表面に目に見えない程の傷ができてしまうからです。柔らかい布が堅いはずの金属に心の焦りを刻み込んでゆく。もちろん何メートルも離れて見れば見分けがつきません。しかし、人の評価とは関係なく、ただただ丁寧に磨いた仏具に、見えないはずの心が映し出されていたという尊い事実がここにあります。

 さてそのお婆さんは、よくお寺にお説教を聴きにみえまして、いつも先生のまん前に座られ、にこにこと法話に耳を傾けてみえました。よく笑う方でして、おかげで法話会もずいぶんなごんだ雰囲気になりました。これならさぞや家庭でも優しいお婆さんなんだろうなと思いきや、「気難しいところがありましたよ」と、言われてびっくりしたことがあります。
 そういえば写真に写ったお顔がどれも堅い表情で不思議だったのですが、こちらも本当の顔だったのかと、謎が解けて納得するやらがっかりするやらで、複雑な思いになりました。明治生まれの人は芯が強いと言います。笑ってばかりでは済まない時代を生き抜かれたいのですから、顔が厳しくなるのも当然でした。でもお婆さんの話は、ここからが有り難くなります――

「そんなこんなを全部吐き出さんとお迎えが来んのです」と、言われたと聞きました。今度は私の頭が下がりました。
 普段仏教を勉強しているはずの私でしたが、単なる知識だけで言える言葉ではありません。普段お婆さんの言われる教学上の細かい間違いを、あれこれ訂正していた自分が恥ずかしく思えてきました。

 仏教は、信心すれば人ががらっと変わるという教えではありません、真鍮が金に変わる事は無いのです。真鍮は真鍮のままそのまま光る。気難しい人も気難しいまんま。大らかな人も、短気な人も、それぞれが持っている癖が、個性として光り輝く教えです。お婆さんの言われた「全部吐き出さんとお迎えが来ん」という言葉には、取り繕おうとしても取り繕えない自分の正直な姿と、それがそのまま如来のはたらきであり、尊いみ教えそのものであったことが見えています。

 お婆さんは、数年前に亡くなられましたが、私が今の話を聞いたのは、ごく最近の事でした。

 「しゃべるばかりでなく、もっと耳を澄ませなければ」と、本人から聴けなかった自分を反省するばかりです。

 このように、一見智慧学問とは無縁のように思えても、驚くような人生観や忍耐力をお持ちの方々がたくさんいらっしゃいます。そこには小さくても心をこめて荘厳した仏壇が安置されていることでしょう。この人たちにとって仏壇はもはや偶像ではないのです。

 浄土の荘厳と仏壇の荘厳と現実の世界とは密接な関係をもっていて、譬えも多種ありますが、一例をあげれば、現実は宿業の世界、浄土はまごころの世界。泥田に蓮華が咲くように、宿業の中においてのみ人間としてのまごころの華が咲くのです。

 理屈は知らなくても、心の言葉でそれがわかる。案外あなたの周りにも、そんな方が大勢みえるかも知れませんよ。

(※ {仏壇の必要性と因縁話} 等参照)


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