普段おしゃべりな私だが、ちょっとした気の緩みからひどい風邪をひき、喋ることもままならなくなってしまった。僧侶にとって声が出ないことは致命傷で、こうなると月忌勤めが辛い。まして年忌法要の勤めはなお辛い。そんなことでしばらくモンモンとした日々が続いている。
そんなある日、年忌法要が二つ重なり、一軒はどうしても私が勤めねばならなくなった。全く自分でも情けない声で、咳で何度もつまりながら前半の『仏説無量寿経』は何とか読み終えが、この段階で声は完全に枯れてしまっていた。いつもは休憩時間を利用して短い法話をさせていただくのだが、この日はそんな余裕もなく、お茶でのどをモゴモゴ潤して後半に備えて黙っていた。
この日、法事に集まってみえた親戚の方々の中に80歳を超えるお婆さんがみえたのたが、休憩になるかならないかのうちにお喋りを始めていた。しかも耳が遠いので大きな声である。内容は「最近の若いモンはなっとらん・・・」、「昔の人たちは偉かった・・・」という、よく聞く話なのだが、調子に乗って延々と喋られる。
普段の私なら「最近の若いモンは、と言われるけど、最近の年寄りもなっとらんのじゃないですか?」とか、「昔の人たちが今の人を育てたんでないの?」などと言い返すところだが、この日はうんうん (゜゜)(。。)(゜゜)(。。) と肯くしかない。最初は言い返せないもどかしさが先に立っていたが、そのうちあきらめて聞いていると、お婆さんはしばらくして、いかにも<<満足した>>という表情で話を終えられた。
考えてみれば、もしこの日、私が法話をすることに一生懸命でいたら、このお婆さんの話は「邪魔だなあ、うるさいなあ」と感じていたことだろう。またお婆さんも充分話を聞いてもらえず不満が残っただろう。風邪のおかげで昔話が日の目を見ることになった。
「お婆さん、私の代わりに法話してくれてありがとう御座いました。私から付け加えることは、それもこれも、今日のことも、みな南無阿弥陀仏のおはたらきで尊い宝となるんですよ、ということだけです」
そう言って後半は皆で一緒にお勤めをさせていただきた。あいかわらず情けない声しか出ないが、これも南無阿弥陀仏のおはたらきに出会って尊い宝となっていた。
それ以後、声が枯れている辛さは同じだが、相手の言葉に耳を傾ける「聞々とした日々」が続いている。
当ホームページはリンクフリーであり、他サイトや論文等で引用・利用されることは一向に差し支えありませんが、当方からの転載であることは明記して下さい。
浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)