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【十界モニター】

心の距離感

― 家族と呼べる最低ラインは ―

 身の距離と心の距離

 僧侶として御門徒さん宅にうかがいお経を称える際、私がいつも気になるのが人と人の距離=B普通は調声[ちょうしょう]を勤める私が前に座り、御門徒さん方は1メートルほど後方に座られるのだが、一般的に高齢になるほどこの距離は縮まり、とあるお婆さんなどは私のすぐ脇に座って熱心に唱和される。
 どうやらこの身と身の距離というのは心の距離≠フ表れでもあり、そういう意味では親しみを持ってもらっているのだろう。しかし、夏はもうちょっと離れてもらった方が……、そう思いつつ言えないまま一緒にお経を称えさせてもらう状況が続いている。

 ただ私にとっては、距離が近いより遠い人の方が気にかかる。広いお宅でずっと後方に座られたり、次の間に控えて座られると避けられてるのかな?≠ニの疑心もわく。聞いてみると、ただ遠慮してみえるだけだったり、「お経中は僧侶と同じ部屋に入ってはいけないのだと思っていました」とのことで、誤解が解ければ安心するのだが、そうでない方もみえる。僧侶の顔を見ると途端に自室に雲隠れする人もいるのだ。

 どうやら仏事は最年長者に任せておけばいい≠ニいう間違った認識が世間にはびこり始めているようだ。いつからこういう寂しい状況になってしまったのか知らないが、私は気になることはきちんと気にする性質である。「さあ、みんな集まって!」と家族全員を呼び、人数分の聖典を配り、皆で唱和するよう勧めるのだ。これで大抵は集まる。面倒くさいな≠ニ思っている人も居るかも知れないが、家族一緒に仏壇の前に座れなければ、それは家族とは言えない≠ニの信念で私は嫌われ役を買って出ることにしている。勿論様々な家庭の事情はあるのだろうが、人間としての基本は一緒に手を合わすことにある。ここを避けてしまっては、何事も始まらないのだ。

 そういう意味では、先のお婆さんは極めて優れた人間性を保ってみえると言えるだろう。先日などは私を追い越し、ついに経卓[きょうじょく]のまん前に座られてしまった。さすがに「私の座る場所が……」と言おうとも思ったが、よくよく考えてみれば、このお婆さんは私とではなく仏壇との距離が極めて近いのだ。つまり、仏とお婆さんとの心の距離が極めて近い状態なのだから、[とが]める必要はないだろう。そこでこういう変則もありかな≠ニ思い、私はお婆さんの後方で調声を唱えさせてもらうことにした。ご家族の方もさしたる違和感はない模様で、わきあいあいとした月勤めとなった。いっそのこと次は調声・導師をやってもらおうか、とも考えている。

[Shinsui]

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