[index]    [top]
【十界モニター】

供養の真実

心を起こすと同時に宝を得るとは?

 仏事に供養はつきものである。供養なくして仏事は成り立たない。なぜなら、当人の信心が真実であるか否かは「諸仏供養がかなっているかどうか」にかかっているからだ。大経にも聖人の著にも「化生の者は諸仏を供養し、胎生の者は諸仏を供養することができない」意が詳しく説かれている。
(参照:{供養諸仏の願}{往覲偈(序) 「#自分の真心を供え仏の真心を聞き開く」}{胎化得失1}

 それほど重要な供養であるにも関わらず、浄土真宗の僧侶の中には、供養をないがしろにする風潮さえあるのはなぜだろう。

 供養に関する様々な誤解

 問題は供養に関する様々な誤解である。
 誤解の最初は、仏教が日本に伝来するまでに儒教の影響を受けてしまったことだ。儒教は封建制度を永続せしむる思想ではあるが、残念ながら人間そのものの覚醒・解放・自覚を促す教えではない。まして現代社会においては悪思想とさえいえるものだ。これが仏教の清浄なる思想を汚してしまっている。

 この一例として供養ということでいえば、仏教本来の供養は「恭敬供養くぎょうくよう」を基本とする諸仏供養(無量の諸仏を供養)であったものが、儒教の悪影響により、「追善」という傲慢な態度にすり替わってしまった。そして先祖や水子の冥福を祈る≠ニいうことに歪められてしまったことにある。
 その心理を探れば――死んだ人間はまだ冥界で迷っているかも知れないから、お経を読んで救ってあげよう。慰めてあげよう≠ニいう感覚だろう。一見立派な行為のようだが、これでは自分は現世の高台に立ち死者を見下す図式になる。仏教ではこうした態度こそ供養の真反対である「殺生」であり、地獄の業となるので厳に慎むべきであるとしている。そこで聖人も<親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず>(歎異抄5)と、自力の思い上がりをたしなめてみえるのだが、これを供養の否定≠ニ誤解している人もいて、これでは元も子もないことになる。

 さらには、特殊な例で亡くなった方を幽霊や鬼に仕立て上げ、彼等のたたりを恐れ、慰霊のためにお経を読むことを供養と言い、これを売り物にして生業を立てている僧侶もいる。しかし死者は幽霊でもなければ鬼でもない。そうした恐怖心を植えつける偽りの僧侶こそ幽霊であり鬼なのだ。そしてこうした僧侶の嘘にだまされれば、遺族も引きずられて幽霊や鬼になってしまう。まことに嘆かわしい限りの嘘供養であり、嘘儀礼ではないだろうか。

 真実の供養とは

 では真実の供養とはどういう内容で、いかなる態度で為されるものなのだろうか。
 たとえば「先祖供養」ということでいえば、先祖を慰めたり祟らないように拝むことが一般的な理解だが、真実はそうではない。先祖代々の血と汗と涙の歴史を念じていれば、いつのまにか先祖のまごころや徳が私に至って日々を生きる力となってくる、こういう経験が誰にでもあるだろう。これが本当の先祖供養である。

 ところが経典には「無数無量那由他むしゅむりょうなゆたの諸仏の国に至る」とある。つまり経典では、先祖といってもたかだか百年や二百年の先祖を言うのではない。畢竟ひっきょう全人類が先祖であり子孫であり同朋である。聖人の言葉を引けば<一切の有情はみなもつて世々生々せせしょうしょうの父母・兄弟なり>(歎異抄5)である。しかも、全人類・同朋全てを諸仏として敬い拝むことが真実の供養と勧められている。

 では諸仏を供養するとは具体的にはどういうことになるのか。基本は何度も言うが「恭敬供養くぎょうくよう」。「恭」はうやうやしくつつしみ深くへりくだるいこと。「敬」は相手を尊敬すること。出会う人ごと、全人類・同朋全てを尊敬することである。自らの無智を恥じ、無慚無愧の我が身を懺悔し、どうぞあなたの命がけの求道の経験を聞かせて下さい≠ニ申し出る。自分は敬虔な態度に徹し、相手を尊敬してその心根を聞き開いてゆくことが供養であり、この態度が出ることこそ真実信心の功徳の発露なのである。

 ところが俺は信心を得たがお前は得ていないだろう≠ニ相手を馬鹿にし、自説を押し付けようとする者たちが後を絶たない。特に僧侶に多いので注意が必要だ。傲慢な態度で相手の生き様を否定すれば、そこは地獄の真っ只中。自分こそが地獄の鬼である。「自信教人信[じしんきょうにんしん]」も、ひとつ間違えば不定聚[ふじょうじゅ]邪定聚[じゃじょうじゅ]の暴露となりかねない。「即得往生住不退転[そくとくおうじょうじゅうふたいてん]」とも「一念発起入正定之聚[いちねんぽっきにゅうしょうじょうしじゅ]」とも言う位は、つねに敬虔な心と態度において一切衆生を敬い学ぶ者のみが得られる境地なのだ。
 そして日々の暮らしにおいて一切衆生が念じられてゆく。願作仏心[がんさぶっしん]度衆生心[どしゅじょうしん]という無上菩提心[むじょうぼさいしん]の発露によって、一切衆生とともに自らの人生を成就してゆこうと願い続けることができる。自らの人生成就が一切衆生の済度とつながっていることを念じられてはじめて諸仏供養がかなうのである。
(参照:{先祖供養や厄払いの祈祷に意味はあるのか}

 あらゆる宝を得る

 さて、この諸仏供養が本当に実現したかどうか、つまり信心が真実であるか否かの証しはどこで検証するかというと、第一に「供養如意の願」によるべきだろう。

浄土真宗聖典(注釈版)
 たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、諸仏の前にありて、その徳本を現じ、もろもろの欲求せんところの供養の具、もし意のごとくならずは、正覚を取らじ。
現代語版
 わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩がさまざまな仏がたの前で功徳を積むにあたり、供養のための望みの品を思いのままに得られないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
梵文和訳
 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土にいる求道者(菩薩)たちが、黄金や、銀や、宝石や、真珠や、瑠璃や、螺貝や、石や、珊瑚や、水晶や、琥珀や、赤真珠や、瑪瑙[めのう]などのうちどれか一つを以てでも、あるいはあらゆる宝をもってでも、あるいはまた一切の花や、薫香や、花かずらや、塗香[ずこう]や、抹香や、衣服や、傘や、幢や、幡や、燈明や、あるいはまた、あらゆる踊りや、花や、音楽などの、どのような形のものを以てしてでも、(仏を供養して)善根を植えようと願った時に、このような形のものが、かれらがその心をおこすと同時にあらわれて来ないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

 先の「諸仏供養」が真実に適っているか否かは、「恭敬供養くぎょうくよう」・「讃嘆供養[さんたんくよう]」(仏を褒め称えて物心をささげる)・「礼拝供養[らいはいくよう]」(散華・焼香・燃灯・懸幡などをもって仏を礼する)が実現できているかどうかにかかっている。信心が真実ならば、それは自ずと形になって現れるからだ。現実に現れ出ない「心だけの供養」は自己満足に過ぎないと言えよう。

 願文に即して言えば、仏を供養して善根を植えようと願った時は、黄金や、銀や、宝石や、真珠や、瑠璃や、螺貝や、石や、珊瑚や、水晶や、琥珀や、赤真珠や、瑪瑙などのうちどれか一つを以てでも、あるいはあらゆる宝をもってでも、あるいはまた一切の花や、薫香や、花かずらや、塗香や、抹香や、衣服や、傘や、幢や、幡や、燈明や、あるいはまた、あらゆる踊りや、花や、音楽などの、どのような形のものを以てしてでも=A必要な品はすぐに、供養の心をおこすと同時にあらわれて来る、ということになる。

 すると当然、こういう反論も出るだろう。――そんな宝物を買うお金は私にはない。宝が買えない貧乏な者は浄土に生まれることができないとなれば、それは条件つきの道であり、一切衆生を済度する仏願とは異なっているのではないか、と。

 これは一見もっともな意見のようだがが、経典は理屈や常識で読んではいけない≠ニいう原則がある。すると、黄金や宝石が諸仏供養に必要ならばそろう≠ニいうことはどういう意味だろう。

 結論から言えば、これは諸仏供養の志があれば、手元にあるあらゆるものが金品を超えた金品になる≠ニいうことを説いているのだろう。山のような財宝を相手に差し出しても、投げ捨てるような渡し方をすれば財宝はまごころとしての価値は失ってしまう。相手は私の心根を見抜いて恨みまで起こすかも知れない。

 しかし「貧者の一灯」のたとえもある通り、たとえわずかな金品でも諸仏供養の志があれば、それは何にも増して尊い宝となる。もし金品がなくても、相手を敬う温かい言葉をかけることができれば、その言葉は何にも増して尊い宝となる。寄り添うだけで良ければそのように、たとえ音痴でも心を込めて歌うことで相手が喜ぶならば、その下手な歌こそ世界一の歌声になるだろう。供養は「[]いたもちより心持ち」。要は物の値段ではなく、物が本物になること。浄土は物も心も全てが本物となる世界である。これが「供養如意の願」の真意であろう。
(参照:{論注・荘厳種々事功徳成就}

[Shinsui]

[index]    [top]

 当ホームページはリンクフリーであり、他サイトや論文等で引用・利用されることは一向に差し支えありませんが、当方からの転載であることは明記して下さい。
 なおこのページの内容は、以前 [YBA_Tokai](※現在は閉鎖)に掲載していた文章を、自坊の当サイトにアップし直したものです。

浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)