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【十界モニター】

「生かされている」論の誤謬

― 客観的真理として前提にしない ―

 浄土真宗の法話を聴聞させていただくと、「生かされている私」もしくは「生かされてある私」という言葉がよく出てくる。「自分で生きていると思ったら大間違いで、本当はあらゆるものによって許され生かされているのだ」という論である。さらにこれを客観的真理として定め、人間の行を全否定した挙句に「他力」を持ち出し、「我を出すな」「仏にまかせよ」と展開する話もある。

 果たしてこれが浄土真宗の教義にかなった法話なのだろうか。

 生かされっぱなしの生命などどこにもない

 浄土真宗の教義であるならば、真実の教義でなくてはならない。すると、まず「自分で生きていると思ったら大間違いで、本当はあらゆるものによって許され生かされているのだ」という論が真実なのかどうかを確かめねばならないだろう。

 そこではるか遠く、生命誕生から今現在に至るまでの歴史を探ってみると、みずから生きようとしない生命など皆無であることが分かる。弱肉強食の自然界においてはもちろん、人間社会においても、みずからを鼓舞し、他者や社会の中で切磋琢磨し勝利した者だけが生き残ってきている。たとえば酸素なども、本来は生命を脅かす毒であったものを逆に利用する、他部族や他国のからの侵略を対話や力で抗じてきた。そうした逞しさを具えた種族や民族だけが生き残ってきた。今存在している私たちは、過酷な自然や社会の中で自ら困難を克服してきた者たちの血と歴史を受け継いだ子孫なのである。

 つまり世の中のどこを探しても「生かされっぱなし」の存在などどこにも無いことが分かる。

 こうした現実があるにも関わらず、真実の教えを旗印にしている浄土真宗の教義において「生かされている私」という言葉が語られるのは何故だろうか?

 困難を仏智によって転じる

 生かされている私――これは客観的な真実を語ったものではない≠ニいうことを理解する必要がある。あくまで今現在の状況を全面的に引き受ける≠ニいう覚悟の言葉なのである。

 困難な状況が降りかかると、多くの人は過去や他人に怨みつらみを述べがちになる。実際、「傷つけられる私」「怨みの中の私」「妨害を受ける私」という方が事実に近いのかも知れない。親族以外で言えば、中には援助の手もあるが世間の風は総じて冷たい。凋落した政治家や経済人・芸能人などを罵る声は辛辣だ。
 しかしそんなことを言ったり思ったりしても人生に何の益ももたらさない。過去を怨めば今が虚しくなり、将来を開拓する力は削がれる。むしろ過去一切の経緯を全面的に受け入れ、困難を力に転じて生きていくところに活路が見出せるだろう。

 そこで「生かされている私」という覚りが生まれるのである。これは仏智のはたらきによって、困難な状況を希望の泉に転じる言葉なのだ。「生かされている私」という自覚が生まれた瞬間から、その自覚は事実となって世間に展開する。これは、たとえば『仏説無量寿経』の中では『令識宿命の願』として説かれている。

 ただし、「生かされている私」に対して「私を生かしている阿弥陀仏」という図式を用いるのは完全に間違いである。阿弥陀仏は、至心・信楽・欲生のはたらきによって、これまでの私の生き方を深く懺悔せしめ、広く同感し許しあい、そこから願いに随って新たな自分と環境を創造する根本主体なのであり、むしろ「生かされている私」の業を全面的に改編する力を発揮する存在なのである。

 誤謬が気になったので述べてみた。釈迦に説教であれば陳謝する。

[Shinsui]

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浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)