平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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【仏教QandA】

仏教とキリスト教の違い

― 様々な観点から ―

質問:

我が家は浄土真宗の門徒であり、折りに触れ教えを受けさせて頂いていたつもりでおります。(正直申し上げまして、正確なお話しをその都度、理解していたかは振り返ると疑問ではありますが。。)

この度、質問をさせて頂きますのは英国滞在の機会を得て、こちらの教会の主催する<MEETING OF INTERNATIONAL WIVES>という集いに参加しておりますが、その中でキリスト教の聖書を学ぶ機会に接することとなりました。

その際、参加されていた他の日本人の方はクリスチャンでキリスト教の合理性、最近の葬式仏教的考え方、法名に対する間違った理解、などを話されたため、私の知っている範囲で法名に対する正しい考え方などを説明したつもりだったのですが、現地イギリスの方からも仏教について説明をしてくれないかと申し出がありました。
自分の宗教についてもお互いにより理解を深めるための良いチャンスであると考えています。

多くのインターネットのサイトなどを検索し自分なりに理解を深めようと思いかなりの時間を割きましたが、未だに自分の言葉での解釈が進みません。
短いことばで理解をしてもらおうと思うことに無理があるのは承知しているのですが、最終的に浄土真宗を例に挙げ、説明をしたいと思っています。
日本の仏教にも多くの宗派があり、用語一つをとっても違ったり(浄土は他の宗派ではまた違うように理解しています)、事物に対する考えかた一つをとっても違う解釈をしていると思われます。

あまりに壮大な申し出に対し、与えられている時間はわずかなので、どうしたら良いかと思っております。稚拙な質問ですが何とかお教え頂ければと思います。

1.仏教共通の教えはどのようなことでしょうか。
(キリスト教との違いはどのような点でしょうか<プロテスタント>)
2.仏陀と阿弥陀仏の説明(阿弥陀仏はどの様な仏様なのでしょう。)
3.浄土と天国(heaven)の違いは何ですか。
4.「いかに死ぬか」ということは「いかに行ききるか」という考えかと思いますが、これは、ある種キリスト教と仏教あるいは、他の宗教や哲学にも共通した観念かと思ったりもしますが、どうなのでしょうか?

返答

 確かに「壮大な申し出」ですね。こうした問いに誠実にお応えするためには、辞典なみの内容が必要でしょう。
 また私どもに、これらの質問にお応えできるだけの勉強が充分してあるのかどうか、と問われれば、大変心もとなく、特に「キリスト教との違い」ということは専門外ですし、宗教を比較することは、得ることだけではなく、失う面も多いということも考慮しなくてはならないと思いますが、解る範囲でお応えさせていただくことにします。もし回答に問題点があるようでしたら、会の方に批判してくださるように仰って下さい。

 法名について

 質問事項にはありませんが、法名について少し触れさせていただきます。
 以前、{法名(戒名)に関する僧侶の暴言} というコラムを書かせていただいたのですが、真宗の僧侶でありながら、ひどい認識違いをしている某ラジオパーソナリティーには憤慨させられました。マスコミの宗教音痴ぶりも相変わらずで、いくら抗議や投書をしても直りません。これでは一般の方々が誤解されるのも止むを得ないでしょうが、知っている者がそれぞれの場で正法を述べるしかないのだと思います。

 法名につきましては、「名は体をあらわす」と同時に「名は名のり」ですから、願いがこもっているのです。俗名は親の願いがこもっていますが、法名は仏教徒としての願いを表します。仏教は自覚の宗教ですから、「かくありたい」という願いは自ら進んで名のることが本来ですが、自灯明・法灯明といいまして、まだ自覚ができていない人は、師から教えに適った法灯明としての名をもらうのです。
 そこで以前は、僧侶は法名の内願(特定の名前を希望すること)ができても、信徒は内願できない決まりでした。しかしこうした僧侶と信徒の壁が問題となり、平成15年5月からは、信徒も内願できるようになりました。

 仏教共通の教え

1.仏教共通の教えはどのようなことでしょうか。

 「仏教共通の教えはどのようなことでしょうか」という問いですが、仏教共通の教えは、「有る」ともいえますし、「無い」ともいえます。
 どういうことかと申しますと、キリスト教的な意味での「共通の教え」を探しても、「それは無い」としか言えません。近代においてキリスト教の思想が東洋に入ってきて、仏教とキリスト教を比較する際に、こうした「共通の教え」をまとめようとした人が沢山いましたが、結局はうまくいきませんでした。
 しかし、共通した教えは無いままに、それら全ての教えを生み出す背後の存在といいますか、教えを無限に生み出す形の無い根本精神や、根本精神が願いとなって形に報いた世界はあるのです。言ってみれば、共通の教え(言葉・教学)はないが、共通の法(真理・根本精神)はある、ということでしょう。これを言葉で表せば「菩提心」(無上菩提心・阿耨多羅三藐三菩提)ということになります。仏教は、覚りを求める菩提心の宗教なのです。

 それは、「人間が人間以上の理想存在(仏)に成る理念と実践方法を示している」ということであろうと領解できます。そのため、地獄(悪社会)という環境と餓鬼(我執)・畜生(無明)という一人一人の課題を克服し、三悪道(三途)を超え、一切衆生が智慧と徳を具えた仏と成る法を説くのです。いわば宗教的な意味の進化を目指すのでしょう。
 このことを『涅槃経』には「一切衆生悉有仏性」といい、全ての衆生がその性質を有していることを説き、人間以上の存在といってもそれは本当の人間に成ることに他ならず、人間そのものに宿っている仏性の華を開かせることである旨を示しています。
 また仏への道程には「自利利他円満」の52の段階があることが確認されていますが、『仏説無量寿経』においては、自己の成就が人間関係においてのみではなく、歴史を背負い社会的自覚に立った世自在王仏を理想人格とし、私たちは自己を変革し、環境を清め、歴史を創造してゆく菩薩と成ることが説かれています。いわば人類全体が人間から仏へと自覚的進化を遂げる願いと、その過程における社会環境の問題や実践方法が説いてあるのです。

 私が本気で仏教を聞きだした十七、八の頃には、講師は「分け登る麓の道は異なれど、同じ高嶺の月を観むる」と、自力の禅宗も他力の念仏も、道は違ってもさとりは一つと説き、村人もそれに同調して、仏教もキリスト教も、宗教は皆究極の真理は一つであるといっていた。
 しかし宗教を求める動機が違い、道が違えば、さとりも違う。
 原始仏教が問題にしたことは、生死からの解脱、苦悩の解決で、その道は迷いを転じて「涅槃」の「悟り」を開くことである。その人は煩悩を断って、自己の独立を成し遂げた「アラカン」である。
 初期の大乗仏教は、この世は形ある滅びて行く仮の世界であるとして、永遠に滅びることのない「法性真如」の世界を求めて「智慧と慈悲」を兼ね備えた「仏」を「覚り」とした。
 後期の大乗仏教の『華厳経』は、人生が苦であろうが、無常であろうが、私たち人間にとってはさらに問題ではない。人間は未完成である。人間自身を完成することこそ一大事である。その完成の道は「人は人によって初めて人になる」と、五十三人の師に育てられて、「智慧と徳」を成就した「仏」になることを説いている。
 親鸞が真実の宗教と称えた浄土教の『大無量寿経』は、さらに一歩を進めて、人間完成の道は人によるだけではない。「人は環境の産物である」と、自分がそこに置かれている歴史的現実に立って、主体的人間と環境を創造して止まぬ「無量寿国」の土徳の「四十八の願力」に乗じて、創造的世界の創造的前衛である「不退転の菩薩」となることを説いている。
 これを見ても求道の動機が何であるかが、如何に大切か解るであろう。

島田幸昭 著 [仏教のさとり(八葉通信4号)]より

 しかし、こうした歴史があるにしろ、現在の仏教には余りにも統一性がありません。誤解は一般人のみならず、信徒や僧侶にもあります。しかも瑣末な問題ではなく基本的な世界観さえ混乱をきたしている現状なのです。
 こうなった原因について述べても、求めてみえる答えから外れてしまうかも知れませんが、私自身、原因のいくつかを見つけておりますので、以下提言として一つ述べさせていただきます。

 あまり詳しく述べると煩雑になりますから、衆生が覚りを得る種である「仏性」の問題を例にとってご説明します。

わが所説の十二部経のごとし。あるいは随自意説、あるいは随他意説、あるいは随自他意説なり。
乃至 善男子、わが所説のごとき、十住の菩薩少しき仏性を見る、これを随他意説と名づく。なにをもつてのゆゑに少見と名づくるや。十住の菩薩は首楞厳等の三昧、三千の法門を得たり。このゆゑに了々としてみづから阿耨多羅三藐三菩提を得べきことを知るも、一切衆生さだめて阿耨多羅三藐三菩提を得んことを見ず。このゆゑにわれ十住の菩薩、少分仏性を見ると説くなり。
善男子、つねに一切衆生悉有仏性と宣説する、これを随自意説と名づく。一切衆生不断不滅にして、乃至阿耨多羅三藐三菩提を得る、これを随自意説と名づく。
一切衆生はことごとく仏性あれども、煩悩覆へるがゆゑに見ることを得ることあたはずと。わが説かくのごとし、なんぢが説またしかなりと。これを随自他意説と名づく。善男子、如来あるときは一法のためのゆゑに無量の法を説く。

『涅槃経』(迦葉品) より(顕浄土真実教行証文類 真仏土文類五 20 真仏土釈に引用)

意訳▼(現代語版 より)
 私が説いた十二部経いは、あるいは仏自らの意にしたがって説いた教えがあり、相手の意にしたがって説いた教えがあり、あるいは自らの意にも相手の意にもしたがって説いた教えがある。(中略)
 善良なものよ、わたしは第十地の菩薩でも仏性を少ししか見ないと説くが、このように説くのを相手の意にしたがって説いた教えというのである。なぜ少ししか見ないと説くのか。第十地の菩薩は首楞厳などの三昧を得、すべての教えに通じている。そのため、明かに自分がこの上ないさとりを得るということは知っているが、すべての衆生がこの上ないさとりを得るということは知らない。このようなわけで、わたしは第十地の菩薩でも仏性を少ししか見ないと説くのである。
善良なものよ、わたしは常にすべての衆生にはことごとく仏性があると説く、これを自らの意にしたがって説いた教えというのである。すべての衆生は、仏性が途切れることもなくなることもなく、やがてはこの上ないさとりを得る。これを自らの意にしたがって説いた教えというのである。すべての衆生は、仏性が途切れることもなくなくなることもなく、やがてはこの上ないさとりを得る。これを自らの意にしたがって説いた教えというのである。
すべての衆生にはことごとく仏性があるが、煩悩におおわれているから見ることができないのである。このように説くのは、わたし自らの意にも、そなたたちの意にもかなっている。これを自らの意にも相手の意にもしたがって説いた教えというのである。善良なものよ、如来は一つのことを明らかにするために数限りない教えを説くことがある。

『浄土和讃』弥陀経讃(九四)に、「信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ  大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり」とあります通り、大信心(真実信心)は仏性であり如来であります。私どもが覚りを得るのは仏性の華が開くことであり、この仏性がどのような道筋を辿って華開くのかを知ることは大切ですので、親鸞聖人も仏性の問題には非常に神経細やかに諸経を引用して述べてみえます。その中で『涅槃経』から「随自意説」と「随他意説」と「随自他意説」の違いについて引用されていますが、これは仏教経典全体を通しても非常に重要な指摘なのです。

 まず「随自意説」ですが、これは「自らの意にしたがって説いた教え」で、真実のみをそのまま語ってみえる教えです。
 仏性の問題についていえば、「わたしは常にすべての衆生にはことごとく仏性があると説く」(一切衆生悉有仏性)であり、「すべての衆生は、仏性が途切れることもなくなることもなく、やがてはこの上ないさとりを得る」わけですから、どんな凡夫も一闡提(仏性が無いといわれる人)も、真実を言えば、生れた最初から最後まで仏性があるのであって、一瞬でさえ途切れることなく、この仏性の種が華開いて、やがて覚りを得て仏に成ることができるのです。これが、真実全てが見えている仏が、見えているままを語ってみえる教えです。
 それならば、「随自意説だけでいいじゃないか。真実じゃない説などいらない」と思われるかも知れませんが、経典の中での「随自意説」は、一般人が読むと「夢物語が書いてあるんじゃないか。こんなの迷信だよ」と誤解を受ける部分なのです。いわば、幼稚園児に大人の世界を説明しても解らないどころか興味さえ示さないように、一般衆生には最も退屈な説き方となってしまう部分です。
 また、「あなたにも仏性がずっとあるよ」と言っても、言われた本人自身に仏性が見えないのですから、変に誤解を与えて自堕落になってしまいます。幼稚園児でしたら、「今のわがままな私のままでいいんだ」と誤解してしまうでしょう。仏性は対象としてとらえられるものではないのです。また自分に仏性があると解っても、一切衆生にあるとは解らない。これは「眼見」と「聞見」の違いで説明されていますが、世間的に言えば、「あんな凶悪犯にも仏性があると言うのか!」と反発されてしまうでしょう。さらに、「私には仏性があるし、それは絶対に途切れないのなら、どんな犯罪を犯してもいいじゃないか」という誤解も生むでしょう。

 そうした誤解を避けるために「随他意説」を用いるのですが、これは一般衆生の心情に合わせて説いてありますので、一番解り易い箇所です。初期の経論釈はほとんどがこの部類に入っていて、「よく解るから随自意説よりいい」という評判が立つわけです。また浄土の経論釈でも、自らの体験と重なることが多いので、「ここの箇所はよくわかる」と言われているのは大抵「随他意説」の部分です。
 たとえば、「第十地の菩薩でも仏性を少ししか見ない」とあるのは、第十地の菩薩というのは最高位の菩薩ですから、こうした菩薩でさえ仏性を少ししか見ない(眼見)、まして一般人は眼見はできないから聞見しなさい、というわけです。聞見は、<自分では見ることができないのだから、とにかくよく教えを聞いて、聞いた通りを信じてみなさい>というのです。見ることが智慧であり仏性ですから、結局<あなたには仏性など無いのだから、自分など信じず、懺悔して仏様から仏性をもらいなさい。仏様の慈悲を信じてごらんなさい、仏性・信心がいただけるから>と説くわけです。こうしていただく信を{無根の信}といいますが、確かにこうした道を辿ることが、結果的には真実信心に至る道となります。
 仏の本音で言えば、無根の信など有り得ないのですが、相手の心情にあわせて説くと、<とても有り得ないような真実信心がいただけた>とか<私の持っていなかった仏性・信心が仏よりいただけた>という経験をするので、相手の経験に添って説かれるのです。これは、いわば「認識論」や「実践論」という部類に属する教えでしょう。比べて「随自意説」は「存在論」や「本質論」でしょうか。
 たとえば、幼稚園児が大人になるためには、あれを学びこれを学び、外側から色々な経験を与えられて成長するわけですから、体験的に言えば幼稚園児の中には大人的な要素はなく、多くのものが与えられて大人になったという体験をします。しかし、幼稚園児が「私は将来、大人になりたい」と言えば、大人は「大人になるのは当たり前じゃないか。もともと大人に成るようにできているんだから」と笑って言うでしょう。大人に成ってしまえば、子どもがいずれ大人に成ることは当たり前であることは解るのです。
 具体的にいいますと、蓮如上人の書かれた『御文章』はひたすら「随他意説」で説かれ、文字も読むことができない多くの信徒たちの心情に添って、「末代無智の在家止住の男女たらんともがらは」と誤解を与えないように呼びかけられ、仏性については一言の言及もありません。そして「随自意説」の「一切衆生悉有仏性」の領解は、よく理解できている人たちのみに語って、信徒に慢心を与えないように注意されたのでした。

 しかしどうも歴史的に仏教教学は、「随自意説」と「随他意説」を混同してきた経緯があり、「随自意説」をもとに「認識論」や「実践論」を展開したり、「随他意説」を引用して「存在論」や「本質論」とするような愚かな説が後を絶ちません。
 もし「随自意説」で「認識論」や「実践論」を展開すれば極端な本覚思想になってしまい、「本来仏である私は修行しなくてもそのまま仏である」と自己を誇り堕落してしまいます。
 逆に「随他意説」で「存在論」や「本質論」を展開すれば、衆生に宿る仏性が見出せません。そうすると極端な話、「人間は尊い存在とは言えない」とか「人間にはもともと仏性なんてものは無いんだ」というような、仏教の根本精神を失いかねない教えになってしまいます。実はこれは笑い話ではなく、浄土真宗の僧侶の中にもこんな誤解をしている人もいるので油断ができません。早く「随自意説」と「随他意説」の混乱を直さなくてはならないと思います。

 そうした壁を乗り越えるために「随自他意説」があるのです。ここでは「すべての衆生にはことごとく仏性があるが、煩悩におおわれているから見ることができないのである」とありますが、これが「存在論」としても「認識論」としても適う教えで、これを具体的にいいますと――「何と性根の無い私だろう」と懺悔する、自分の中に深くして底なしの罪悪が見える、この懺悔や、罪悪を見抜く眼そのものが仏性なのです。「肉眼は見ている対象は見えるが見ている眼そのものは見えない、しかし心の眼は対象と同時に見ている眼そのものを見ることができる」といいます。懺悔して悔い改めることで救われるというのは他者との取引ですが、仏教は「即」なのです。懺悔そのものが仏性であり、罪悪深重の凡夫と見抜く眼が仏性で、こうした智慧が人を餓鬼性・畜生性から脱皮させ、やがて地獄という社会悪・環境悪を克服させる起点となるのです。そして、この智慧が行為を通すことで徳となり、智慧と徳を具えた仏になる道筋がここに見えるわけです。
 仏性は、「私にはこんな善いところがある、あんな智慧も功徳もある」と自分を対象として慢心するところにはないので、「衆生の仏性は非内非外にして、なほ虚空のごとし」(涅槃経)と説きます。大悲は大非なのです。
 このように、自己を誇ったところには仏性は無いが、自らの姿を懺悔する主体こそが即ち仏性のはたらきであり、自己ではなく如来を尊ぶところに仏性の顕現があるのです。
 そしてこの仏性を守り育ててきた背後の歴史の目覚めが「真実信心」とよばれる「信楽」です。

次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。

『顕浄土真実教行証文類』信文類三(本) 三一問答 法義釈 信楽釈

意訳▼(現代語版 より)
 次に信楽というのは、阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、すべての功徳が一つに融けあっている信心である。このようなわけであるから、疑いは少しもまじわることがない。それで、これを信楽というのである。 すなわち他力回向の至心を信楽の体とするのである。
 ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことに信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。
 すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。
 この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の真実の信心というのである。

 キリスト教との違い

(キリスト教との違いはどのような点でしょうか<プロテスタント>)

「キリスト教との違い」ということですが、そうした宗教経験が無い私にはお応えすることは本当は難しいのです。ただ、伝え聞いているところによって比較すると、いくつかの相違点が明かになってきます。特に、自覚と啓示の違いは大きいと思います。これはたとえば、以前、いのちより大切なものとは?(#仏教は自覚的無限、キリスト教は啓示的無限 )において、無限・永遠という捉え方について一例を挙げましたが、再度一部引用しますと――

 キリスト教では<永遠の現在>という。永遠が時間を食い破ってでる。この啓示的であるということがキリスト教の特色である。
 歴史のはじめは<永遠の今>という時間がないと成り立たないということは、人間の世界そのものが宗教的根拠をもつということである。人間は時間的存在である。その時間においてある人間世界に人間を超えた永遠が永遠自身として自己自身を啓示する。永遠が永遠のままで、時間のなかへ時間の法則を破って出てくる。これは時間にとっては奇蹟である。
<中略>
・・・仏教はキリスト教と違って啓示的でなく自覚的であることが特徴である。時間が時間自身の本質を自覚する。それが永遠である。つまり仏教の永遠は時間を奇蹟的に破ってでてくるのではなく、時間自体であって時間の外にあるのではない。意識が三世として自己を失っていた、それが客体であったと自覚する。つまり時間が時間自身を知る。客体的時間を客体であったと知るところに主体的時間を回復するのである。永遠とは識が識の本来性、超越性を自覚する。そういう意味で自覚的なのである。
<中略>
 愛情は感情である。感情は私自身のなかに閉じこもる。つまりエゴである。しかし愛は喜んで自己を捨て、裸になる。愛とは、相手そのものとなることである。キリスト教では愛を奇蹟的にいう。仏教の慈悲は自覚的である。自覚だけが超越であるという。識が識自身を自覚すると識が消えるのではなく、識が真に永遠にかなった識になる、本来性を開示した識になるのである。

 仏教のなかにも個が永遠のなかに消えてしまうような仏教もある。個が涅槃のなかに解消してしまうという考え方もある。しかし、これは正見ではない。相対有限なるものが無限のなかへ解消してしまうのは、有限の真の救いではない。真の救いは有限が無限の象徴になることである。
 無限と有限とがあるのではない。あるのは有限のみである。無限といっても有限の他にあるのではない。だから無限は有限の本来性である。有限が有限を自覚すれば無限の象徴になる。それが超越というこである。この有限ということを真に最後まで保持するのが親鸞教学である。そこに真の個がある。有限が涅槃や絶対無限のなかに解消してしまったり、無限が有限を破って出てくるという考え方は危険である。

『安田理深講義集6 親鸞における時の問題』第二講 意識と時間 より

というように、有限が永遠と交わるのではなく、有限が有限を自覚するとことによって本来的永遠が自覚されるという特徴があります。この無限ということについて、鈴木大拙氏はその著『妙好人』の中で――

無限を捕らえても、この無限なる物は、有限の中においてのみ意味を持つものである。それゆえ、これを捕らえたということは、却ってこれを捕らえぬということになるのである。とらえてとらえず、却って捕うということにさえなる。それゆえ、差す潮と引く潮でできている人間の心は、いつも鏡のごとく平かな海を看ているというわけには行かぬ。波を鎮めてしまえば、海もなくなる。波を騒がせておいてしかも海を忘れぬところに、悟りがある。南無阿弥陀仏がある。

というように、「これ」と断言することを良しとしない仏教の特徴を表しています。たとえば、他宗教では真なるものや無限なるもの・絶対なる超越存在を「神」と言い切ってしまうところでしょうが、仏教では同様の性格を持つものを「真如」というように、如(ごとし)と言って「捕らえぬ」まま、懺悔と歓喜の波のある有限の生活のままが無限の覚りと成るのです。(真如と阿弥陀仏の関係は後に説明します)

 もう一つ、信仰と信心の違いについても述べなければならないでしょう。

一般常識では、信仰も信心も同じ意味に使われていますが、学問的には区別しています。信仰は、仰いで信ずることですから、神や仏を他者として、向こうに観るという形式ですが、その心は、神仏は尊い、人間は浅ましく力のないものということです。救済の宗教はみなこの信仰の部類に入ります。その中には未開発時代の原始宗教から、今日の高級な宗教といわれているものまで含まれるでしょう。
 信心は「心」は主体性を意味する言葉で、自己の誕生を現わします。自分には浅ましい自分と尊い自分とが、矛盾的に同居していることを自覚して、尊い人間になりたいと願う、本来の自己が誕生したことを現します。矛盾的存在とは、仏教では人間には仏と鬼が同居しているといい、キリスト教では、神と悪魔が同居していると言っているでしょう。人間の在り方の矛盾性を自覚して、まことの人間になりたいと願う、その心を仏性とも信心ともいうのです。
<中略>
 私は子どもの頃に、母から「月夜の蟹はやせる」ということを聞かされました。私は島の産まれですが、海辺にはたくさん蟹がいました。闇夜には影は映りませんが、月が出ると、砂地に蟹の影が映る。蟹はお化けが出たと、自分の影におそれる。逃げても逃げても影は追って来る。そこで身がやせるというのです。ここでは月と影と蟹と、はっきり見ている自分が出ています。

信仰の場合では、影が自分であるといいます。人間は煩悩のかたまりとか、罪のかたまりと言っていますが、これはまちがいで、影はどこまでも影であって、松でもなく、蟹でもありません。仏教では煩悩のことを、垢とか毒といっていますが、これはくせのことです。どんなに垢にまみれていても、私は垢ではありません。くせはくせ、私は私です。愚かな自分を悲しみ、浅ましい自分に泣いている、その悲しみ泣いている、それが本当の自分です。腹が立ち、欲が起こるのはくせで、腹を立てたくない、欲を起こしたくない、そう願っているのが自分です。この泣いている心、願っている心を仏性というのです。

島田幸昭著『仏教四十八願開眼』 より

 キリスト教の宗教体験が無い私ですが、もし実感として、自らの存在の尊さや仏性(言葉は違っていてもそれに類する事柄)の尊さを体験できないのであれば、それは信仰ということにですから、仏教とは違う信であると言わなければならないでしょう。

 また、当HPでは、{十字架から芬陀利華へ} (ジャン・エラクル著/国際仏教文化協会)や、{私の浄土真宗}(至徳・A・ペール博士 講演集)、{お念佛に解放された私}(アグネス・エンジェエスカ 著/清文堂書店 あすか・ぶっく4)といった、キリスト教から改宗された方の本を紹介させていただいています。もし仏教を誤解されてみえる方がみえましたら、こうした資料をお見せください。

 ただし、これらによって仏教の優位性を証明しようとする意図はありません。聖徳太子の制定された{憲法十七条}の十条に、「われかならず聖[ひじり]なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず、ともにこれ凡夫[ただひと]ならくのみ。是く非しきの理[ことわり]、たれかよく定むべき」(自分は聖人ではないし、他人は愚者ではない。ともに(欠点の多い)凡夫にすぎないのである。善悪の理屈は誰がよく定めることができよう)とある通りです。

 阿弥陀仏と諸仏の関係

2.仏陀と阿弥陀仏の説明(阿弥陀仏はどの様な仏様なのでしょう。)

 このことにつきましては、{浄土理解の相違点} に詳しく述べてありますが、別の資料も用いて簡単に説明してみましょう。

【佛身】ぶっしん 仏の肉身のこと。仏の身体。・・・仏の身については、仏教徒の間で種々に考察され、これを仏身論という。釈尊自身は真理(法)を信ずる立場に立ち、自己はなくなるが法は不滅だから、自己なきあと、法にたよれと遺言したが弟子たちは釈尊の人格をとおして仏法を信奉したので、釈尊在世の時に、すでに釈尊の身を通常人を超えたものとみ、釈尊滅後は、釈尊の説いた法を釈尊の不滅の身(法身)とみなし、釈尊の現実の身(生身)に対置し、二身説を主張した。その後釈尊に代わる種々の仏が立てられてくるとともに、仏身論も、二身説から三身説・四身説ないし十身説と発展した。そのうちで大乗仏教の法・報・応の三身説が有名である。
法身は永遠不滅の真理で、仏の本身であり、応身は仏の現身であるが、大乗仏教では真理(法)から、衆生救済のために、この世に応現した人格身とみなす。
報身は、両者を統合したようなもので、それは単に永遠な真理でもなく単に無常な人格でもなく、真理をさとった人の功徳(因行果徳)を有する理想的な身体で、永遠な真理の生きたすがたであり、人格的力であるとする。仏身については、複雑な論議が起きた。

『佛教語大辞典』(中村元著/東京書籍) より

 ここに「法身」とあるのは、「真如」「法性」といわれる真理の人格化した身です。なぜ人格化したかといいますと、仏教はあくまで人の道ゆきを説いた「まごころの宗教」ですから、抽象的な観念論に陥らないようにするためであろうと思われます。また、「真如」「法性」といっても、その場に留まるものではなく、常に衆生にはたらきかけてくる存在、という性格を表しているのかも知れません。
 この「法身」は、「永遠不滅の真理」を人格化したのものですから、もしかしたらキリスト教で信じられている「神」と類似があるかも知れません。ちなみに日本にキリスト教が入ってきた時、仏教徒は「神」=「真如」と理解したようです。「宇宙の根源的大生命・永遠不滅の真理」ですから、仏教徒側がそう理解するのは必然だと思いますが、キリスト教の側はこれを誤解と見たようなのです。どうして否定したのか私にはよくわかりません。自覚と啓示の違いや「教えが違う」と言われればそれまでですが、実践論としてではなく存在論としては共通点があると思うので、機会がありましたらキリスト教の方に一度お聞きしてみて下さい。

「応身」は肉体を持った仏です。応身の代表はもちろん釈尊ですが、釈尊出世以前にも、毘婆尸仏[びばしぶつ]尸棄仏[しきぶつ]毘舎浮仏[びしゃふ]拘留孫仏[くるそんぶつ]拘那含牟尼仏[くなごんむにぶつ]迦葉仏[かしょうぶつ]の名が確認されていますので、仏教は厳密に言えば釈尊以前からあったのですが、過去仏の詳しい教えは残っていず、ただ「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」(諸の悪をなす勿れ 衆の善を奉行せよ みずからその心を清くする これ諸仏の教なり)の七仏通戒偈を共通して受持したといわれています。釈尊以後の仏は、名は残っておりませんが、経典の内容から見てみれば、多くの仏が出世されて経典を編纂されたことはほぼ間違いないでしょう。
 辞書ではこの「応身」を生み出すのが「法身」となっていますが、果たしてそう言い切れるのかどうかが問題でしょう。なぜなら「法身」と「応身」の間には距離があり過ぎるのです。つまり、「報身」の願いと永い歴史性を通してのみ「応身」が生じると理解すべきなのではないかということです。このことは次項で説明させていただきます。

「報身」につきましては、「両者を統合したようなもので、それは単に永遠な真理でもなく単に無常な人格でもなく、真理をさとった人の功徳(因行果徳)を有する理想的な身体で、永遠な真理の生きたすがたであり、人格的力であるとする」とありますが、この報身の代表が「阿弥陀仏」であり、「真実報身」といえば「阿弥陀仏」を指しますので、報身は阿弥陀仏に集約されていると言うことができます。
 この点親鸞聖人は――

大小の聖人・善悪の凡夫、みなともに自力の智慧をもつては大涅槃にいたることなければ、無碍光仏の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆゑに、この仏の智願海にすすめ入れたまふなり。一切諸仏の智慧をあつめたまへる御かたちなり。光明は智慧なりとしるべしとなり。

『唯信鈔文意』2 より

意訳▼(現代語版 より)
大乗・小乗の聖人も、善人・悪人すべての凡夫も、みな自力の智慧では大いなるさとりに至ることがなく、無碍光仏のおすがたは智慧の光でいらっしゃるから、この仏の智慧からおこった本願の海に入ることをお勧めになるのである。無碍光仏はすべての仏がたの智慧を集めたおすがたなのである。その光明は智慧であると心得なさいというのである。

と述べられ、「阿弥陀仏はあらゆる仏の智慧の集合体である」という領解をされてみえます。(無碍光仏とは阿弥陀仏の異名)。
 また蓮如上人は――

さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。

『御文章』 二帖 9 より

意訳▼(蓮如の手紙/国書刊行会 より)
南無阿弥陀仏というお念仏の行そのものには、一切のもろもろの神々、仏、菩薩も、そのほかのすべての善い行いや修行も、ことごとくみなこもっています。ですから何の不足があって、もろもろの修行や善い行いに心をとめなければならないのでしょうか。すでに南無阿弥陀仏というお名号は、すべての善い行い、すべての修行全体なのですから、いよいよたよりになるというものです。

と述べてみえます。智慧が行為を通せば徳となりますから、「万善万行の総体」とあれば、結局これは智慧のみならず、「阿弥陀仏はあらゆる仏の功徳の集合体でもある」という領解でしょう。

「一切諸仏の智慧をあつめたまへる御かたち」であり、「万善万行の総体」であることが報身の特徴ですが、『仏説無量寿経』には、歴史的な経緯も含めてこと細かに明らかにしてあります。詳しくは {法身と報身の違い} に述べておきましたので、時間がありましたら一度読んでみて下さい。その中でも『唯信鈔文意』4は、言いえて妙ですので、再度引用してみます。

「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性なり、法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。報と申すはたねにむくひたるなり。この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光を放たしめたまふゆゑに尽十方無碍光仏と申すひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。無明の闇をはらひ、悪業にさへられず、このゆゑに無碍光と申すなり。無碍はさはりなしと申す。しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。

『唯信鈔文意』4 より

意訳▼(現代語版 より)
「涅槃」のことを滅度といい、無為といい、安楽といい、常楽といい、実相といふ、法身といい、法性といい、真如といい、一如といい、仏性という。仏性はすなはち如来である。
 この如来は、数限りない世界のすみずみまで満ちわたっておられる。すなわちすべての命あるものの心なのである。この心に誓願を信じるのであるから、この信心はすなわち仏性であり、仏性はすなわち法性であり、法性はすなわち法身である。法身は色もなく、形もない。だから、心にも思うことができないし、言葉にも表すことができない。この一如の世界から形をあらわして方便法身というおすがたを示し、法蔵比丘と名乗られて、思いはかることのできない大いなる誓願をおこされたのである。
このようにしてあらわれてくださったおすがたのことを、世親菩薩は「尽十方無碍光如来」とお名づけになったのである。この如来を報身といい、誓願という因に報い如来となられたのであるから、報身如来と申しあげるのである。「報」というのは、因が結果としてあらわれるということである。
この報身から応身・化身などの数限りない仏身をあらわして、数限りない世界のすみずみにまで、何ものにもさまたげられない智慧の光を放ってくださるから、「尽十方無碍光如来」といわれる光であって、形もなく色もないのである。この光は無明の闇を破り、罪悪にさまたげられることもないので、「無碍光」というのである。「無碍」とは、さわりがないといことである。このようなわけで、阿弥陀仏は光明であり、その光明は智慧のすがたであると知らなければならない。

 真如や法性が永遠不滅の真理であり、法身はそのはたらきを人格的にあらわしていますが、まだ色や姿形が無い。
 そこで「法蔵比丘」と名のりをあげた時点が「方便法身」であり、ここにおいて究極の本願が建てられ、永遠不滅の真理が願いとなり言葉となって衆生の歴史に入り満ちてきます。つまりこの「法蔵」は「如来蔵」であり、一切衆生の血となり肉となって宿り相続される仏性、もしくは一切衆生の宿業を背負って立つ歴史的求道精神を象徴しています。これによって衆生の求道精神や人類全体の歩みを法蔵の名で象徴したのであり、人類全体を背負った求道精神を願いとして表したのです。(参照:浄土真宗の教え(ご本願を味わう)
 この願いが成就して身に報いた仏が報身であり、真実報身は「尽十方無碍光如来」、つまり「南無阿弥陀仏」です。

 この報身如来より無限の応身・化身の仏を生みだします。応身は智慧と功徳が満ちた仏であり、化身は応身のように覚りを成就してはいないが、覚りを求める心が動き出した人のことです。また、人間以外の動物なども、たとえば鳥の声も仏法僧と聞こえる、という経験をした人にとっては、鳥も仏の化身ということになるでしょう。
 なお、法身・応身・報身は、覚りの縁に応じて三種の身を表していますが、究極としては一体なのです。

 真如の無願の悟りと 浄土の本願の覚り

3.浄土と天国(heaven)の違いは何ですか。

 浄土については述べることができますが、天国については専門外ですので、体験として違いを明かにすることは困難です。しかし、旧約聖書などに書かれてある天国の内容を仏教徒なりに理解しますと、キリスト教等で言われる天国は、神の命に疑いなく従う人々の集う場であり、そうした天から授かったままの命や預言と再結合することを目指しているのでしょう。裸のままで恥らうことのなかった人類が、善悪の智慧の樹になる実を食べ、裸であることを恥じたために、神の怒りを買ってエデンの園を追放された、というのですから。智慧を持つことを罪悪として、もう一度天国と再結合(religion)するために神と契約を結ぶことが天国に生まれるための条件となっているようです。

 これに対して浄土というのは、大人としての智慧を得る場といえましょう。裸のままで恥じることのない無垢な世界から人類は追放された≠ニいうことがキリスト教の歴史観であるとすれば、仏教は自らの智慧と決断において人類は天国から巣立った≠ニいう歴史観を持っています。
 その証拠は、例えば「天上天下唯我独尊」という誕生の叫びにありましょう。世において唯一尊いものは、天上の神ではなく、地に巣くう悪魔ではなく、このわが命、真の我である、と人間の自覚を促します。また、「自業自得」の道理を説き、自らの運命は自分で切り開くほか道がない≠ニ、言われてみれば当たり前の真実を再確認するのです。さらに、「自灯明・法灯明」と依りどころを示し、「自灯明」は他の声によって動くことなかれ≠ナ、最終的な決断は自らにおいて為し、責任転嫁を戒め、「法灯明」において、普遍的な法を「正しい人生観」として身につけることを促しています。
 ですから、浄土は自らの責任において人生を切り開き、社会を創造する精神に満ちています。もちろん浄土の住民は皆衣服を着ています(参照:{衣服随念の願})。そして人間はまだ未熟なので、智慧と徳を得て人間が成熟していく求道の方向が、教えとして示されているのです。
 ただ仏教にも原点復帰を目指す道が無いとは言えません。そこで、体験論・実践論として浄土の信心経験を明らかにし、仏教の真如・法性の悟りとの違いを述べておきますので、キリスト教信者の宗教体験を聞いて比較していただけば、「どちらかに近い」か「いずれとも違う」か、おのずと明かになると思います。

 まずは真如の悟り、法身から直接悟りを開いた境地について述べてみます。
 以前、{Q.42 「日日是好日」という書をよく見ますが、どういう意味ですか? } で、雲門が開いた境地について述べてみましたが、これは三昧に向かう往相としては―― 真如の絶対平等の世界を悟りつつ、現実の千差万別の世界を受け入れる。そこに全ての「いのち」が「引き換えることのできない尊厳」を有していることを悟る。行動としては三昧の状態になり、外界一切と自分とが一体となっている。しかも、その状態に夢中になって自らの歩みや主体を忘れてつまづくようなことはない。自由無碍な創造生活を送る。
 そして三昧を出て生活に向かう還相としては―― 自由無碍なだけの生活を批判し、日日是好日と、たとえどんな困難な日々がやってきても好き日と心乱さず歩んでゆく。一時一時を丁寧に、それでいて執着を起こさず生活していくのです。

 禅宗(曹洞宗や臨済宗など)の道は、禅体験において直接真理を悟る教えと聞きますので、もう少し見てみましょう。

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。 (良寛)


仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱し、物と拘らず、透脱自在なることを得ん。 (臨済義玄)
われもし恩愛をなげすてずば、恩愛かえりてわれをなげすつべき云為あるなり。 (道元)
釈迦牟尼仏のいわく、無上菩提を演説する師にあわんには、種姓を観ずることなかれ、容顔をみることなかれ、非をきらうことなかれ、行いをかんがうることなかれ。 (道元)
 これらは「空・無相・無願三昧」の悟りということでしょう。「災難に逢いたくない」と思うから災難が恐い。「死にたくない」と思うから死が恐い。願いは捨てて、受けるべき災難は受けていけばよい。 また、仏や先生の権威に執着しているからいけない。どんな権威も打破してゆけば、自らが主人公として自在に歩むことができる。 恩愛も投げ捨てるべき時には投げていかねばならない。

 これらは一見もっともなことのように思われます。しかし同時に、何か浮世離れしている悟りのように私には思われます。 何かが足りない。その何かが報身の歴史性・社会性なのでしょう。
 災難に逢う、交通事故にあう、戦争になった、そんな時に「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候」では足らないのです。交通事故に遭えば補償問題を解決し、再び事故に遭わないように解決策を考えなければならない。死ぬ覚悟は必要だが、生きる事はもっと厳しいから、ちゃんと長生きする準備もしておかねばならない。戦争になりそうならば、何とか戦争にならないように動かねばならない。そのためには、自分自身の内面外面を自覚的に創り、人間関係から始まって、国と国の関係を互いに尊敬しあえる仲に変えていこうという願いを持つ必要があるでしょう。これを本願というのです。
 仏祖父母の恩愛も、それは我が身にからみつくものでありながら、それらを捨てて自由に振舞うのではなく、恩愛を背負うことで自分が育つ。恩愛の中に生きつつ恩愛を超えた覚りを開くことが報身のはたらきです。
 また自分が主人公といっても、それは他を尊敬する中で育まれるのでありましょう。あらゆる過去を引き受けてこそ現在がある。現実社会では、過去を問わずには何も始まらないのです。現実社会を問題にしないような「世捨て人の宗教」であれば過去は問いませんが、これでは自己満足の宗教になってしまいがちですから注意が必要でしょう。

 さらに、先生を選ぶ時には、氏素姓や容姿で選んではいけない、世間的な是非や外面的な所行を詮索してはいけない、ということですが、これも果たして現実社会を解った人の言葉でしょうか。
 氏素姓はさておき、容姿は人を見る重要な要素です。銀行にお金を預ける時に、「頭取の頼りなさそうな顔を見て預金を止めた」ということもあるでしょう。その人が正直か嘘つきか、どういう人生を送ってきたのかは、顔を見て声を聞けば一瞬で解るでしょう。大統領や首相がその責務に値する徳を備えているかどうかは、容姿を見れば大体想像がつくのです。現在、世界最大の権力者である者がどういう容姿をしているか、成熟した大人の相を得ているか、と問いつつ今の国際社会の混迷を見れば、容姿も重要であることが解るでしょう。ですから師を選ぶ際には姿形を見ることが重要で、この理想像を三十二相で表すのです。(参照:{具足諸相の願}
 このことは、{ロン毛で茶髪の青年僧について} にも書きましたが、阿難が釈尊を称えるのも、法蔵比丘が世自在王を称える最初も、まず容姿なのです。一人一人の容姿には、その人の人生とともに、その人を取りまく環境が現われ、また歴史が宿っている。大きなことを言えば、宇宙始まって以来一切の過去が、一人一人の容姿に宿っているのです。

 さらに世間の評価も重要で、たとえば「あの会社の車には絶対乗りたくない」という評判が立つのは、実績が世間の評判となってくるからです。同様に、世に悪思想を流し人命を奪うような宗教団体は、大抵は地域住民の評判も悪いものです。世間の評判は絶対ではありませんが、火の無いところに煙は立ちませんから、大いに参考にするべきでしょう。

 そうすると、報身の覚りはどのようなものでしょう。
 真如の覚りとの比較で言えば、「無願三昧」ではなく「本願」。「本願成就の歴史を聞き開く」ことが報身よりもたらされる覚りでしょう。我執(餓鬼)や無明(畜生)に留まった自力の願いは、それらを清浄・荘厳するはたらき持つ本願によって、深い願いに変えられていくのです。この覚りは真実報身より回向される覚りですから他力というのです。
『仏説無量寿経』の「往覲偈」には、安楽浄土(無量寿仏の国)と信徒が出会う体験が述べられていますので、少し長いですが、引用させていただきます。

そのときに世尊、しかも頌を説きてのたまはく、
「東方の諸仏の国、その数恒沙のごとし。
かの土の菩薩衆、往いて無量覚を覲たてまつる。
南・西・北・四維・上・下〔の仏国〕、またまたしかなり。
かの土の菩薩衆、往いて無量覚を覲たてまつる。
一切のもろもろの菩薩、おのおの天の妙華・
宝香・無価の衣を齎つて、無量覚を供養したてまつる。
咸然として天の楽を奏し、和雅の音を暢発して、
最勝の尊を歌歎して、無量覚を供養したてまつる、
〈神通と慧とを究達して、深法門に遊入し、
功徳蔵を具足して、妙智、等倫なし。
慧日、世間を照らして、生死の雲を消除したまふ〉と。
恭敬して繞ること三■[ゾウ]して、無上尊を稽首したてまつる。
かの厳浄の土の微妙にして思議しがたきを見て、
よりて無上心を発して、わが国もまたしからんと願ず。
時に応じて無量尊、容を動かし欣笑を発したまひ、
口より無数の光を出して、あまねく十方国を照らしたまふ。
光を回らして身を囲繞すること、三■[ゾウ]して頂より入る。
一切の天人衆、踊躍してみな歓喜す。
大士観世音、服を整へ稽首して問うて、
仏にまうさく、〈なんの縁ありてか笑みたまふや。やや、しかなり、願は くは意を説きたまへ〉と。
〔仏の〕梵声はなほ雷の震ふがごとく、八音は妙なる響きを暢ぶ、
〈まさに菩薩に記を授くべし。いま説かん。なんぢあきらかに聴け。
十方より来れる正士、われことごとくかの願を知れり。
厳浄の土を志求し、受決してまさに仏となるべし。
一切の法は、なほ夢・幻・響きのごとしと覚了すれども、
もろもろの妙なる願を満足して、かならずかくのごときの刹を成ぜん。
法は電・影のごとしと知れども、菩薩の道を究竟し、
もろもろの功徳の本を具して、受決してまさに仏となるべし。
諸法の性は、一切、空無我なりと通達すれども、
もつぱら浄き仏土を求めて、かならずかくのごときの刹を成ぜん〉と。
諸仏は菩薩に告げて、安養仏を覲せしむ、
〈法を聞きて楽ひて受行して、疾く清浄の処を得よ。
かの厳浄の国に至らば、すなはちすみやかに神通を得、
かならず無量尊において、記を受けて等覚を成らん。
その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、
みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る。
菩薩、至願を興して、おのれが国も異なることなからんと願ふ。
あまねく一切を度せんと念じ、名、顕れて十方に達せん。
億の如来に奉事するに、飛化してもろもろの刹に遍じ、
恭敬し歓喜して去り、還りて安養国に到る。
もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。
清浄に戒を有てるもの、いまし正法を聞くことを獲。
むかし世尊を見たてまつりしものは、すなはちよくこの事を信じ、
謙敬にして聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜す。
■[キョウ]慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し。
宿世に諸仏を見たてまつりしものは、楽んでかくのごときの教を聴かん。
声聞あるいは菩薩、よく聖心を究むることなし。
たとへば生れてより盲ひたるものの、行いて人を開導せんと欲はんがごとし。
如来の智慧海は、深広にして涯底なし。
二乗の測るところにあらず。ただ仏のみ独りあきらかに了りたまへり。
たとひ一切の人、具足してみな道を得、
浄慧、本空を知り、億劫に仏智を思ひ、
力を窮め、講説を極めて、寿を尽すとも、なほ知らじ。
仏慧は辺際なくして、かくのごとく清浄に致る。
寿命はなはだ得がたく、仏世また値ひがたし。
人信慧あること難し。もし〔法を〕聞かば精進して求めよ。
法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、
すなはちわが善き親友なり。このゆゑにまさに意を発すべし。
たとひ世界に満てらん火をもかならず過ぎて、要めて法を聞かば、
かならずまさに仏道を成じて、広く生死の流れを済ふべし〉」と。

『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 衆生往生因 往覲偈 27 より

意訳▼(現代語版 より)
 そこで釈尊は、そのことを次ぎのように重ねてお説きになった。
東の仏がたの国はガンジス河の砂の数ほどに多いが、その国々の菩薩たちは、無量寿仏の国に往き仏を仰ぎ見る。
南・西・北・東南・西南・西北・東北・上・下のそれぞれにある国々もまた同様であり、それらの国の菩薩たちも、無量寿仏の国に往き仏を仰ぎ見るのである。
菩薩はみなそれぞれに、うるわしい花とかぐわしい香と最上の衣をささげて、無量寿仏を供養したてまつる。
みなともに美しい音楽を奏で、みやびやかな音色を響かせ、すぐれた徳をうたいたたえて、次のように無量寿仏を供養したてまつる。
「実にみ仏は神通力と智慧をきわめ尽し、深い教えの門に入り、すべての功徳をそなえ、そのすばらしい智慧は並ぶものがありません。
その智慧の光明は世を照らし、迷いの雲を除いてくださいます」 と。
うやうやしく三度右まわりにめぐって、伏してこの上なく尊いこの仏を礼拝したてまつる。
その国は清らかで、思いはかることもできないほどすばらしいことを知り、菩薩はこの上ないさとりを求める心を起こし、自分の国もこのようにありたいと願う。
そのとき無量寿仏はにっこりとほほえまれ、口から無数の光を放って、ひろくすべての国々をお照らしになる。
もどってきた光は仏のお体を三度めぐって、その頭におさまり、すべての天人や人々はこれを見て、みなおどりあがって喜ぶのである。
そこで観世音菩薩は服装を正し、伏して礼拝して問う。
「み仏がほほえまれたのは、どのような理由からでしょうか。
どうぞ、そのお心をお説きください」 と。
仏は雷鳴がとどろくように、すぐれた徳をそなえた声でお述べになる。
「今、ここにいる菩薩たちが未来にさとりを得ることを約束しよう。
これからそのことを説くから、よく聞くがよい。
わたしはさまざまな国から来た菩薩の願をすべて知っている。
菩薩たちは清らかな国をつくりたいと志して、その願の通りに必ず仏になることができる。
すべてのものは夢や幻やこだまのようであるとさとりながらも、さまざまなすばらしい願を満たして、必ずこのような国をつくることができるのである。
すべては、稲妻や幻影のようであると知りながらも、菩薩の道をきわめ尽し、さまざまな功徳を積んで、必ず仏になることができる。
すべてみな、その本性は空・無我であると見とおしながらも、ひたすら清らかな国を求めて、必ずこのような国をつくることができるのである」
仏がたは自分の国の菩薩たちに、無量寿仏を仰ぎ見るよう、次のようにお勧めになる。
「この仏の教えを聞き、求めて修行し、速やかに清らかな世界を得るがよい。
無量寿仏の清らかな国に往ったなら、すぐさま神通力を得て、無量寿仏によって仏となることが約束され、必ずさとりを得ることができるのである。
この仏の本願の力により、仏の名を聞いて往生を願うものは、残らずみなその国に往き、おのずから不退転の位に至る。
そこで菩薩はすぐれた願をたて、自分の国もこの国に異なることがないようにと願い、ひろくすべてのものを救いたいと思い、その名をすべての世界にあらわしたいと望む。
そして数限りない如来に仕えるため、神通力によりさまざまな国に往き、如来を敬い、喜びを得て、無量寿仏の国に帰るのである。
もし人が功徳を積んでいなければ、この教えを聞くことはできない。
清らかに戒を守ったものこそ正しい教えを聞くことができる。
以前に仏を仰ぎ見たものは、無量寿仏の本願を信じ、うやうやしく教えを尊び、仰せのままに修行をして喜びが満ちあふれるに至る。
おごり高ぶり、誤った考えを持ち、なまけ心のある人々は、この教えを信じることができない。
過去世に仏がたを仰ぎ見たものは、喜んでこの教えを聞くことができる。
声聞や菩薩でさえも、仏の心を知りきわめることはできない。
まるで生れながらに目が見えない人が、人を導こうとするようなものである。
如来の智慧の大海は、とても深く広く果てしなく、声聞や菩薩でさえも思いはかることはできない。
ただ仏だけがお知りになることができる。
たとえすべての人々が、残らずみな道をきわめて、清らかな智慧ですべては空であると知り、限りなく長い時をかけて仏の智慧を思いはかり、力の限り説き明かし、寿命の限りを尽したとしても、仏の智慧は限りなく、このように清らかであることを、やはり知ることができない。
そもそも人として生れることは難しく、仏のお出ましになる世に生まれることもまた難しい。
その中で信心の智慧を得ることはさらに難しい。
もし教えを聞くことができたなら、努め励んでさとりを求めるがよい。
教えを聞いてよく心にとどめ、仏を仰いで信じ喜ぶものこそわたしのまことの善き友である。
だからさとりを求める心を起すがよい。
たとえ世界中が火の海になったとしても、ひるまず進み、教えを聞くがよい。
そうすれば必ず仏のさとりを完成して、ひろく迷いの人々を救うであろう」 と。

 十方から念仏の衆生が無量寿仏(阿弥陀仏)の安楽浄土に往生してきます(願生彼国 即得往生 住不退転/かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん)すると、<その国は清らかで、思いはかることもできないほどすばらしいことを知り、菩薩はこの上ないさとりを求める心を起こし、自分の国もこのようにありたいと願う>とあります。

 往生する目的は、阿弥陀仏の浄土を視察して、求道心を起こし、自らの国もこの浄土と同じように素晴らしい世界にしたい、と願いを持ってもらうことにあります。即得往生は今すぐの往生ですから、信徒の領解を仏自らが語ってみえるのが「往覲偈」です。
 では、信徒は今すぐに往生し切ってしまうのでしょうか。実はそうではなく、往生を願うところに浄土がはたらくのです。浄土に歩み往くのではなく、浄土がやってくる。覚りを得ようと努力するのではなく、覚りの側が私に成る。阿弥陀仏の方から私に成りきるのです。これは世界観が変ったことを意味します。そして学びを深めれば、如来回向のはたらきで見えた浄土と、経典に書いてある浄土が全く同じ内容であることが確認できるのです。

 そして、如来は私の願いを全てお知りになっている上で――「すべてのものは夢や幻やこだまのようであるとさとりながらも、さまざまなすばらしい願を満たして、必ずこのような国をつくることができるのである」と言われます。
 この時、「私の願いが如来の願いに転じられていく」という体験をしますが、これは先に申しましたように体験論で、本質論でいえば、往生を願ってみると、私の中に宿っていた本当の願いが、その深みから姿を表し動き始めるのです。永遠普遍の真実が願いとなり、それが先祖を通り、肉体を通して成就し、そして今ここに私の自覚となって生活に現われてくるのです。ただし、これは阿弥陀仏の願いに私の願いが融けて無くなるのではありません。主体を失っていた私の願いが、阿弥陀仏の本願によって願いの主体を見つけたのです。

「すべてのものは夢や幻やこだまのようである」というのは、まだ真如の悟りですが、この夢幻のように流転する現実に、夢幻ではない社会を打ち建ててゆく。「さまざまなすばらしい願を満たして、必ずこのような国をつくる」ということが、報身の願いであり、私の願いとなるのです。

 そうすると――<そこで菩薩はすぐれた願をたて、自分の国もこの国に異なることがないようにと願い、ひろくすべてのものを救いたいと思い、その名をすべての世界にあらわしたいと望む。
そして数限りない如来に仕えるため、神通力によりさまざまな国に往き、如来を敬い、喜びを得て、無量寿仏の国に帰るのである> とありますように、今まで右を見ても左を見ても、ろくな人間はいない、と思っていたところが、こちらの方も仏、あちらの方も仏と、身を動かすことがなくても、あらゆる人々を尊敬できる自分に成っていくことができるのです。この諸仏供養は即得往生を得ているかどうかの目安になるものですが、あくまで和して同ぜずで、意見を同じにすることではありません。

 生と死の問題

4.「いかに死ぬか」ということは「いかに行ききるか」という考えかと思いますが、これは、ある種キリスト教と仏教あるいは、他の宗教や哲学にも共通した観念かと思ったりもしますが、どうなのでしょうか?

 これは重要な指摘だと思います。
 例えば{必至滅度の願} は生と死の問題を扱った願ですが、「正定聚に住し必ず至滅度に至る」という内容で、「正定聚に住し」というのは、前の「往覲偈」の内容です。自分の国を安楽国のような素晴らしい内容にしようと願って生きていけば、必ず覚りに至る、ということです。「必ず滅度に至る」は、これは覚りということとともに、生き切って死ぬ。完全燃焼の人生を送るということでしょう。島田幸昭師の言葉を借りれば、「生きて甲斐あり、死んで悔いなき人生」を無限に生み出す世界が、阿弥陀仏の浄土なのです。
 このことを曇鸞大師は、「仏願力によるがゆゑに正定聚に住す。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至りて、もろもろの回伏の難なし」(往生論註)と曰われ、正定聚に住することが要となって、覚りに至り、迷いの境涯をさまようことがないいわれを明かにされてみえます。生きて正定聚・不退転に住することが仏道の全てであり、結果の滅度は自ずと得られるわけです。
 このことは、{死=阿弥陀如来?} にも詳しく述べてありますので、参考にして下さい。

 なお、唯識論においては、惑や業を因として展開する「分段生死」と、大悲・大願・大定によって展開する「不思議変易生死」の違いをあげて、迷いの生死と、本願力回向の菩提心に乗じた一切衆生を覚りに至らせる生死の違いを説いています。

【分段生死】ぶんだんしょうじ 迷いの世界にさまよう凡夫が受ける生死。限定された寿命・身体を与えられて輪廻すること。寿命の長短や肉体の大小など一定の限界をもっている分段身を受けて輪廻すること。有為生死ともいう。身体あるわれわれの生死。三界の中の生死、六道の中の生死をいう。見惑・思惑を具えた凡夫の生死のこと。寿命に分限あり、形に段別があるゆえ、分段というとも解せられる。

【不思議変易生死】ふしぎへんやくしょうじ 変易は「へんにゃく」とよむ。三界生死の身を離れた後、成仏に至るまでの界外の生死をいう。これは、所知識を助縁とし、無漏の大願・大悲の業を起こして感得する細妙殊勝の果報であるから、不思議変易生死という。無漏の悲願力によって分段生死の粗身を転じて、微細で無限の身を受けるから変易といい、無漏の定願力に助けられて起こるすぐれたはたらきがはかりがたいから、不思議という。

『佛教語大辞典』(中村元著/東京書籍) より

 この転換を「鄙悪の身命を改転して殊勝の身命を成じる」といいます。
 分段生死から不思議変易生死に入るのは正定聚・不退転の位を経た十地のいずれかの位(願いの内容により差がある)ですが、信心獲得した念仏の行者は八地以上の菩薩となることから、全ての真実信心者の生死は、分段生死ではなく不思議変易生死に転じることができる、といえるでしょう。
 信心の相続の尊さは、こうした功徳の相続でもあります。信心の相続は菩提心の相続であり、浄土の菩提心は「弥陀如来回向の真実信心」であり「如来回向の信楽」ですから、真実報身が私に成り切った菩提心であり、念仏者が分段生死から不思議変易生死に転じられるのは必然的な果報なのです。
 これを具体的に言いますと、分段生死は、金銭や他人や他国に対する憎悪や迷いに導く悪思想などがその人の一生の総決算となり、遺された人々に覚りを与え得ない生死であり、不思議変易生死は、歴史を貫いて衆生を覚りに導く菩提心がその人の総決算であり、遺された人々に覚りを与え得る生死をいいます。

 なお、輪廻についてですが、これは霊魂不滅の説を言うのではありません。曇鸞大師も『往生論註』で、「凡夫の謂ふところのごとき実の衆生、凡夫の見るところのごとき実の生死は、この所見の事、畢竟じて所有なきこと、亀毛のごとく、虚空のごとし」と釘をさしてみえるように、不滅の霊魂というのは亀毛(亀の甲羅に生えている藻を毛と見間違うこと)であり兎角(うさぎの耳を角と見間違うこと)であると見抜くことが重要です。

 主体である仏性や信心や菩提心を回復した人の生死は、覚りを相続する生死なのであり、これは、無限に正定聚・不退転の菩薩を生み出す浄土の菩提心を相続する生死なのです。


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