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【本・映画等の紹介、評論】

なぜ宗教は平和を妨げるのか

町田宗鳳 著/講談社

 愛と平和を説くはずの宗教が、なぜか紛争の火種になってしまっている。「人を殺すな」と説いているはずの宗教が、なぜか宗教の名をもって人殺しをする。これは歴史上もそうだったし、現在起っている紛争も、多くは宗教の違いから起っているように思える。
 この「なぜ?」を説き明かす一つの参考になるのがこの本である。

 日本人から見れば、「宗教は平和をもたらすもの」と相場が決まっている。これが事実そうであったかどうかはさておき、宗教の違いが元で戦争が起るなどということは信じがたいことだ。しかし世界的に見ると、宗教は常に戦争を行う口実になってきたし、時として神の名において住民の虐殺も行われてきた。

 著者の町田氏はこの矛盾を解く鍵を「影」にみつける。ただしこの「影」は、もともとは単純な「テロリスト」ではなく、ユング心理学で言う「みずからの劣等な傾向やその他の両立しがたい傾向を人格化したもの」であり、「もう一人の忘れ去られた自分」・「抑圧された自分自身の無意識」と定義しなおしている。そしてこの影を自分たち以外の誰かに投影し、悪を対象化することによって、自分の負の精神を克服した気分になっているのだが、現実には、覆い被された影は巨大化し、いつか反逆に転じることになる。

 古代オリエント文明は、都市国家から成立していたのだが、いったん戦争が起きると、敵は女性や子供も含めて皆殺しか、奴隷にするのが掟だった。だから、モーゼに与えた十戒の中には、「汝、殺すなかれ」と書かれているにもかかわらず、神は皆殺しを宣告するのである。エホバは妬みと怒りの神と言われるが、やはり神というのは人間の知恵では計り知ることのできない矛盾に満ちた存在としか言いようがない。
 そこで言えることは、イスラム過激派という巨大な<影>が誕生するようになったのは、アメリカの世俗的原理主義によるイスラムの宗教的原理主義への侮蔑、西欧文明によるイスラム文明の軽視、さらにこのユダヤ人の排他的な選民思想である。そしてこの三つ目の要因が歴史的には、一番古いことになる。

[ユダヤ人の歴史的記憶]

 このユダヤ教が元になって、キリスト教とイスラム教が起ってきたことは言うまでもないが、この三つの宗教は兄弟でありながら互いに尊重しあってきたとは言い難い。

 信ずる人々よ、ユダヤ教徒やキリスト教徒を友としてはならない。彼らはおたがい同士だけが友である。おまえたちの中で彼らを友とする者がいれば、その者は彼らの同類である。神が無法の民を導きたもうことはない。(『コーラン』五・五一)

 げに恐ろしい宣言である。ここに記されていることを素直に信じるならば、イスラム教徒がイスラエルやアメリカと仲良くすることは、背信行為にさえなってしまうのだ。このような歴史的思い込みを克服することは、どれだけ大変なことかわからない。

[『コーラン』に記されている敵意]

 このような言葉に従う限り、平和はありえないだろう。しかしどの宗教でもそうだが、言葉ではなく本来と意図に随おうとするごく自然な解釈も存在するし、これを最も望んでいるのが民衆である。しかし民衆の切なる願いは常に権力者によって踏みにじられてきた。

 イスラエル国民の中にも、占領地からの即時撤退というつらい条件を呑み込んででも、できるだけ早急に平和を回復することを希望している人は少なくない。もうこれ以上の流血を見たくないのである。パレスチナ人が味わっている不幸は、多くのイスラエルの人にも共有されていると言えよう。
 しかし政府首脳、軍、保守主義者たちは、良識ある国民の声に耳を傾けることもなく、歯止めのかからない強攻策を推し進めている。彼らには、すべての自治区を完全制圧すれば、テロが止むという「正義」の確信があるのだ。

[パレスチナで何が起きているのか]

 こうした無責任な勢力は中東のみではない。アフリカで起っている底知れない悲劇にも欧米の植民地政策がからみ、この時の影が人間不信と憎悪となって今もアフリカを苛んでいる。

 植民地から吸い取れるだけの甘い汁を吸い取って旧宗主国はかつての植民地国が自立するのを援助することもなく立ち去った。
<中略>
 今アフリカ各地に展開する深刻な紛争は、その漆黒の<影>が逆襲に立ち向っている姿なのである。それを単に領土争い、部族間抗争、イスラム原理主義集団によるテロリズムと決めつけるわけにはいかない。
 現実には、領土の奪いあい、部族同士の権力争い、異なった宗教間の争いなどの様相を呈していたとしても、その根っこにあるのは人間に対する不信感と憎悪である。奴隷制や植民地主義などで塗りこめられた過去の歴史で受けたトラウマが、幾世代にもわたって伝達され、さまざまな形で噴出しているのである。

[アフリカを暗黒大陸にしたのは誰]

 このように現在起っている紛争を対岸に見ているだけでは解決策は無いだろう。町田氏は、この影を自分の身に引き寄せて、自己の内部へと<内在化>させるべきであるという。

 テロリズムという「悪」を、あるいは世界貿易センタービル倒壊という事件を<対象化>させたうえで、暴挙を働いたイスラム過激派や、またそれに報復を加えたアメリカを批判することは、わざわざプロの評論家の意見を聞かなくても、誰にだってできることだ。しかし、それをわが身に引き寄せて、さらにそれを自己の内部へと<内在化>させることは、決して容易なことではない。

[紛争を<内在化>する勇気]

 また、世界を見ると、今の日本の状態が決して当たり前の状況ではないことを告げている。

 平和であること。これは一つの奇跡である。人が血を流さず、飢えもせず、雨露をしのぐ家を持ち、日々の生活を親しい人と共に無事に過ごし得ること。これを奇跡と呼ばずに何と呼ぼう。
 ましてや愛する者に囲まれ、与えられた生への喜びと感謝の思いに満たされながら、この世を静かに去ってゆくことができたなら、それは奇跡中の奇跡と言ってよい。われわれ日本人の大半は、溢れるような平和に馴れて、この奇跡を自覚することがない。
 われわれは、とかく日常生活の退屈さ、凡庸さについて愚痴をもらすが、それは平和という奇跡のありがたさに、気づいていないからである。

[自分の中のテロリスト]

 このように冷静に事態を総括している町田氏だが、では宗教自体がどのようになればいいのか、という問いにはきちんと応えていない。

 信仰は、まず理知を超えていなくてはならない。信仰対象や信仰者の心理を冷静に分析するというのなら、それは宗教学や心理学など学問の守備範囲であって、信仰となり得ない。自分が拝んでいる神が本物かどうか、そこで説かれる教義が信用するに足るかどうか、いちいち疑念をはさんでいては信仰は成立しない。信仰は、初めから合理主義とは対局にあるものなのだ。
<中略>
 たとえば親鸞は弟子たちに、「たとひ法然上人にすかされて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう」(『歎異抄』)と語っているが、これも立派に信仰の盲目性を表現している。
 ずいぶん危なっかしい台詞だと思うのだが、日本人の多くはその言葉に表現されている親鸞の信仰における一途さに、深く心打たれる。しかし、もしそれと同じような内容のことを、今はアーレフと改称したオウム真理教の信者たちが口にしたとしたら、ぞっとするのではなかろうか。
 そのように、それが神仏への帰依であろうが、尊敬する指導者への絶大な信頼であろうが、信仰の核心には必ず宗教的盲目性が伴っているのである。何らかの宗教体験を持ったりすることを、心眼が開けると言ったりするが、心眼と引き換えに常識を判断する肉眼を奪い取られることも、なきにしもあらずである。

[宗教に不可避な盲目性]

 こうした「盲目的ジャンプ」が親鸞聖人の宗教だと言うが、あまりにも実体を知らなさ過ぎると言えるだろう。
 まず歎異抄は親鸞直筆の書ではない。弟子の程度に合わせて述べた言葉を、弟子の領解でまとめた書である。「たとひ法然上人にすかされて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう」という言葉も、親鸞の信仰における一途さと解釈するのは勝手だが、親鸞聖人は法然上人のまごころを尊敬しながらも、『選択本願念仏集』の欠点を見つけ、それを補いつつ『教行信証』を書いてみえることは知っているのだろうか。
 たとえば、法然上人は「信じて念仏すればよい」としたものを、親鸞聖人は信心の内容・真実性を問題にし、法然上人の捨てられた菩提心を、親鸞聖人は菩提心こそ如来回向の信心として尊んでみえる。また、法然(源空)上人の字を一字もらった「綽空」の法名を早々と捨て「親鸞」と名を変えたことは、法然上人の領解に対しても常に批判精神を持ってのぞんでみえることがうかがえる。つまり「信仰の盲目性」とは次元を異にしていると考えた方がよい。

 さらに、「信仰の核心には必ず宗教的盲目性が伴っている」ということは信仰の本質ではあるが、それを宗教全体の本質に拡大しようとしていることが残念である。著者は信仰と信心の違いに気づいていないのだろうか。これは文中にいみじくも書いている通り、「自分が拝んでいる神が本物かどうか、そこで説かれる教義が信用するに足るかどうか、いちいち疑念をはさんで」いくこと、これが真実の信心であろう。徹底的に疑うことこそ真実へ続く道である。「人の究極的真実への真摯な求道はその人を必然的に目的へと運んでゆくのです」とジャン・エラクル師が述べてみえる通りである。
 ちなみに、疑いには二種あり、如来のまごころを疑うことは道心を失うことで避けねばならないが、批判精神を持つという意味の疑いは真実心であり大いに奨励されなくてはならない。宗教の盲目性を超える鍵はここにこそあるのだ。

 人間性の中の<狂い>も人間を破壊的狂気の世界に駆り立てることもあれば、神業としか思えない創造行為もなさしめるのである。どれだけ危なっかしいものであっても、<狂い>を否定することは、人間の存在価値そのものを否定することに等しい。
 宗教を体験するということは、この<狂い>を直接体験することにほかならない。<狂い>という人間性の根源的自然にまで立ち返って、森羅万象と一体感を持つこと、それが宗教体験の究極である。宗教が信仰する者をして盲目にするといのも、まさにこの<狂い>が、宗教の本質にあるからである。

[<狂い>と「悪性のナルシズム」]


 それは、<いのち>の尊厳に、みずから一度も触れていないからである。<いのち>の力強い手に、みずからのちっぽけな存在をまるごとつかみとられる体験を持たないからである。

[人間は宗教を乗り越えられるか]

 ここまでくると、町田氏がどうして親鸞聖人を理解できないのかを理解することができる。氏は臨済宗大徳寺で修行を積んだとあるが、「随所に主と作れば、立処皆な真なり」(『臨済録』示衆)とか、「空生巌畔、花狼藉」(『碧巌録』 第六則 頌)という言葉はもう捨てたのだろうか。
「森羅万象と一体感を持つこと」など、宗教体験の究極ではない。狼藉者の心境である。また「みずからのちっぽけな存在をまるごとつかみとられる体験」は外道の信仰であり、これらの体験は師に一喝されるべき境涯である。著者はいつまでこんなところで道草を食っているのだろう。
 仏と我とは、常に照らしあいながらも、互いに破りあう関係でなければならない。仏に飲み込まれた我など、もはや抜け殻である。抜け殻に用はない。
 そうした意味では、この書は現在の宗教の闇を描いてはいるが、著者自身も闇に飲み込まれてしまった書といえるだろう。

[Shinsui]


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