ご本願を味わう 第六願

令得天眼の願

【浄土真宗の教え】
漢文
設我得仏国中人天不得天眼下至不見百千億那由他諸仏国者不取正覚
浄土真宗聖典(注釈版)
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、天眼を得ずして、下、百千億那由他の諸仏の国を見ざるに至らば、正覚を取らじ。
現代語版
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が天眼通を得ず、限りない仏がたの国々を見とおすことができないようなら、私は決してさとりをひらきません。

 世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもが皆、少なくとも百千億・百万の諸世界を見るだけの超人的な透視力(天眼通)を持っていないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より

私の目覚めた眼の世界では、人びとがこの世の幸不幸の向こう側に広がる世界が見えず、永遠に見せかけの世界に止まるようであったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より

 諸師がたの味わい

「百千億ナユタ」は、全ての人間の数ですが、「諸仏」とは、一人ひとりに宿っている仏のことです。大乗仏教では「一切衆生は悉く仏性を有っている」といっていますが、浄土教では、仏性といわずに、仏が宿っているといって、その一人ひとりに宿っている仏のことを諸仏というのです。『華厳経』には、衆生と同じ数ほど諸仏があると説いています。今日の言葉でいえば、相手を人間とし、人格として見ることといえばよいでしょうか。「百千億ナユタの諸仏の国が見える」とは、どの人の上にも仏を見出だし、どんな人をも尊敬して、どの人の世界をも理解することができるようにということでしょう。相手を軽蔑し相手を気嫌いしていたのでは、相手の世界が見え、相手の世界が理解できるはずがありません。
<中略>
頭が下がったその眼で、向こうを見れば、十劫の昔から仏は自分に宿っていたと同じように、どの人の上にも、拝まずにおれぬ尊い仏が見えてくる。そこを『観無量寿経』には「無量寿仏を見るものは、十方の諸仏を見る」と説かれています。相手を尊敬すれば、また相手から尊敬される。相手を理解することによって、自己が成長し、自分の世界が広くなります。「諸仏の国を見る」のは、相手を知ることによって、自分が育つためです。「自利利他円満の菩薩道」が、そこから開けるのです。心の眼が開けたら、それで卒業ではありません。新たな求道がそこから始まるのです。『阿弥陀経』には、それを「これより西方、十万億の仏土を過ぎて」と説いています。「過ぎる」とは、素通りではありません。出会う人を敬い拝み、出会う人毎から教えを受け、お育てに預かってゆくことです。しかしそれはたんに人間だけではありません。山を見ても川を見ても、鳥の鳴き声、雨の音を聞いても、日々降りかかって来る一つ一つの出来事の上に、仏の姿を見、仏の声を聞いて、人生を学び、自己を知って、自分の道を見出だしてゆくのです。

島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より

 私たちは先入観や固定概念、いわゆる「思いこんだら生命がけ」という言葉もありますように、「思いこみ」が非常に強い生きものです。ですから、いろいろなものをみても、それらをなんの「思いこみ」もなく自由に見ることは、なかなか難しいことです。
 自からの「思い」を通してすべてのものを見ますから、何を見ても結局自分の「思い」から一歩も出ていません。
 私たちは自からの「思い」にしばられて、本当に見ることのない日々を送っているのです。
 如来が第六の願で誓ってくださる「天眼通」とは、すべてのものを自からの「思い」にしばられずに自由に見る、本当に見ることのできる能力であります。
<中略>
 ややもすると、自分の小さな「思い」にしばられて、だんだん視野を狭くしていく私たちの為に、如来は「天眼通」を誓ってくださるのです。
 阿弥陀如来をよりどころに生きる信心において、無用の力みやきばりはなくなりますし、小さな「思い」にしばられることもなくなります。信心によって「天眼通」はあたえられるのです。

藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より

どこのどういう国でも見えるようになる。天眼というものを得させねばおかないとあるのです。そんなになれたら千里眼のようで、はなはだ便利でしょう。けれどもその眼玉のことを言っておられるのではなしに、心の眼玉のことを言っておられるのだ、ということを知っておかねばなりません。願成就の文は、下巻にありますが、仏の国の菩薩方になるというと禅定を修して通力を得られるようになる、ということが書かれてあるところに、

肉眼清徹にして分了せざることなし。天眼通達して無量無限なり。法眼観察して諸道を究竟し、慧眼真を見てよく彼岸に度す。仏眼具足して法性を覚了す。(五〇)※

とある。これだけが願成就の御文であると、こう示されておるのであります。肉眼、天眼、法眼、慧眼、仏眼、これを仏の五眼というのである。五眼円かにしてということがありますが、仏のみならず、仏の国に生まれた者もそうであります。往生即成仏でありまして、仏になったら五眼円かになる、それは理屈として申すまでもないことであります。極楽へ行って仏と同じ覚証悟を開かしてもらえば五眼円かになる。有難いことだと言っておれば矛盾はないのですが、それは、そんなことはなかろう、と言って見ても、あるかも知れないし、あると言って見ても、ないかも知れないのです。証明者は誰もないのですから。そういうことではなくして、仏、菩薩が持たれるところの五眼が円かであるということは、信心の人は、此の世におる間からそういう幸せを得さしめてやろう、糸口だけでも得させてやって、遂には完全にそういうことができるようにならしめよう、ということを喜ばしていただくわけであります。だから、国中人天ということが死んでからのことである、と言っておる人もあるけれども、そういうことではないということを知らして下された親鸞聖人の思召しは非常に有難いことであると思うのです。経典は、一応はわれわれの知ることのできないものであって、彼の国に至って得ることだ、というように書いてありますが、それは信心も何もない人に教えるには、そういうより仕様がありませんが、実は信心の人にこういう幸せを得させたいということが、御本願のお心である、ということを知るべきであると思うのです。

蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より

(※注 五〇 =浄土真宗聖典註釈版『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 衆生往生果)

・・・ここでは天眼通とは「諸仏の国を見る」ことになっています。しかれば広く知識を求め自覚を深めることも天眼通でありましょう。われわれがお経を読みお聖教を読み、学問するのは何のためにするかというと、自分の出離生死の要求、自分がほんとうに救われていきたいという願いを訓練するためである。その願いははじめは不純なものでありますから、それを教えによって訓練してもらわねばならない。だから教えによって訓練され、ほんとうにその願いが純粋なものになれば、そこでわれわれは救われるのであります。
 そういうふうに見ていきますと、天眼通というのは人間の知識の満足でありましょう。天眼ということは、つまり肉の眼で見えないものを見るのであります。今日の科学とか哲学とかいうものは、肉の眼で見えないものを見るのであります。すなわち諸仏の国を見るのである。科学には科学の仏あり、哲学には哲学の仏あり、それぞれのものにはみな仏がある。それぞれに智慧の天眼を開いて、そうしてどこまでも知識の要求を満たすのであります。

金子大榮著『四十八願講義』 より

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