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【コラム】

平成11年8月15日

戦争を知らなすぎる子供たち

当たり前の情感を忘れないで

戦争賛美の文化文明

 今、私の前にピカソの有名な絵画『ゲルニカ』がある。もちろん図版で見ているのだが、この大作とともにピカソはおびただしい素描や『泣く女』シリーズをこの時期発表している。

 西暦1937年4月、スペインの小都市ゲルニカがドイツ空軍の無差別攻撃よって惨劇にさらされた。内乱に乗じてフランコ将軍がナチスの介入を要請したために起きた事件である。パリに居たピカソはこのニュースを聞いて、怒りのありったけを絵筆にほとばしらせてこれを描いた。
 戦争という巨大な悪に対して、一個人は無力な存在であるかも知れないが、それでも描かざるを得なかった彼の心情は、国家戦略といった一見筋の通った理屈への反発であり、作品に込めらた叫びは、人間としての当たり前の情感から発せられたものである。「戦争とは何か」といった問題に、これほど直接的な解答を与えてくれる絵画はそうざらには無いだろう。

 歴史的に戦争を題材にした絵画は多い。絵画だけではない、建築、彫刻、音楽、文学、映画・・・人類の文化文明は戦争によって発展(拡大)してきたといっても過言ではないだろう。だがほとんどの場合、戦争の記述は「賛美」という形で表現されてきた。
 凱旋門しかり、将軍の像しかり、先勝記念碑、勇壮な音楽、神話、英雄伝説しかりである。勝利者が先手となり次の文明を作る訳だから、当然といえば当然なのだが、この賛美が次の悲劇を生む原動力となってきたことは、まぎれも無い事実であろう。

心もとない日本の現状

 さて、日本の現状である。

 驚くべき事に、日本がかつてアメリカと戦争をした事さえ知らない学生が多くいるという。すると戦争時の悲惨な状況などは当然知らないだろう。「一体何を教わってきたの?」と聞きたいが、ちゃんと教えていない教育現場にも問題がある。
 また近年、旧日本軍の行為を擁護する論調が増えてきた。「自虐的な歴史観」を問題にする人も多い。だが、戦争に関しては、言い訳をするより事実をありのままに見て欲しい。「日本軍は善だ」「悪だ」と論争する以前に、戦場は悲惨極まりない場であり、そこに国民は強制的に参加させられたのである。
 人間は本来、弱い生き物だ。戦場に行くことは大半の人間本来の感情に反している。本来の感情に逆らわせるには、余程の強制力が必要だ。

 当時、日本の政治家や官僚は、西洋列強諸国からアジアの植民地を解放するという高邁な理想を振りかざし、大東亜共栄圏の拡大確保に動いていた。しかしその理想に賛同する国もあれば反発する人たちもいる。成功するためには時節を得なければならない。理想主義が危険なのは、曲げられない信念が曲がり角に差し掛かった時である。
 果たして性急にアメリカにまで戦争を仕掛けたことにより、日本人全体が「加害者でしかない国民国家」として歴史に記されてしまった。そしてその忸怩[じくじ]たる思いを今述べれば、「本気で謝罪できない国民」として今も世界に喧伝されている始末だ。

 多くの日本国民は、当時まぎれも無く「被害者」であった。
 日本各地を襲った空襲はゲルニカの悲劇を遥かに超えて悲惨であり、これは明らかに軍事拠点以外も平気で襲う無差別爆撃だった。まして広島、長崎に投下された原子爆弾は、人類生存に対する明らかな裏切り行為である。しかしアメリカ政府はいまだにこれらの暴挙に対し謝罪していない。それどころか「戦略的に正しい」と評価し、被害者の叫び声にはひたすら「見ざる聞かざる」を通している。
 さらに驚くべき事に、日本のある政治家(元市長)から原爆を「日本軍の残虐行為への報復として容認」する発言まで飛び出している。これは実はとんでもない暴言なのだが、なぜ暴言であるのか皆分かっているのだろうか。心もとない限りである。

異世界として作られる戦争のイメージ

 現代日本で、戦争に対するイメージはどうなっているのか。結論を言えば、これはもうひたすら「異空間での戦争賛美」を繰り返している。
 アニメ等の表現を思い浮かべてみればわかるだろう。倒されるのは敵であり、戦争は正義、もしくは正当防衛であり、英雄を生み、「愛だ」「勇気だ」「平和だ」と、取って付けたような屁理屈で殺戮を正当化する。そうでない設定でも、戦争を面白がっているとしか思えない。現実離れした設定で大団円を迎えるような戦争表現は、結果として現実逃避を産み、人間としての当たり前の情感を麻痺させてしまうだろう。

 本物の戦争では、弾丸は自分に向かって飛んで来るのであり、手足がもげ、親を失い、子供と死に別れ、自分も命を奪われることになるのだ。こんなことは戦争経験がない私にだって想像がつく。この悲惨さを受け入れてまで参加する戦争にはどんな動機が必要なのか。
「戦略」という言い訳に、ものわかりの良い顔を見せたり、ドライで無表情なまま人を殺すことをカッコイイと思い込ませてしまっている多くの「子供文化」だが、これは安易な戦争賛美に他ならない。

 本当は『ゲルニカ』のように、当たり前の人間的情感から戦いを描くべきだし、平和を保つための限りない努力を賛美する作品こそを、例え視聴率が稼げなくても放映するべきだろう。

 理想主義(これを仏教では自力という)は人々を酔わせる美しい魔力である。人類は幾度もその災厄に苛まれてきた。本来「他力」を標榜する浄土真宗はこの危険性の周知に努めるべきなのだが、その活動は遅々として進まない。それでも希望は捨ててはならない。「戦争は過去のこと」などとはとても言えない現状なのだから。

[Shinsui]

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