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【平成モニター】

平成19年1月17日

父性の復活を

― 母性に偏った文化の問題点 ―

 父性不在社会の危うさ

ゆるす母
ゆるさない父
その中で
子はまっすぐ育つ

(荒了寛)

 人間は父性と母性を充分に受けて育ってこそ、人格も円満になり、社会の荒海に漕ぎ出す力を得ることもできる。特に子ども時代は、父性と母性の導きが必須であることは論を待たないだろう。
 ところが日本を含むアジアでは、虐待など特殊な環境を除いて母性は比較的豊かに継承されてきたと言える(これも近年は危ういが、ここでは略す)が、何と言っても父性が心もとない。今年(平成19年)1月6日の中日新聞に掲載された<『いじめと生きる』D「のび太」的>でも――

「ドラえもんに頼ってばかり」「成長しない」―。こんな、のび太批判は多い。
 マンガもテレビアニメも世界中に輸出されているが、アジアでの人気に引き換え、欧州では数カ国でアニメが放映されたぐらい。
と、母性に偏るアジア文化の特徴が指摘されている。

 その上近代より日本では「経済成長」の名のもと、子育ては母親がするもの≠ニいう観念が広がり、父親が育児に無関心な家庭が多くなった。学童期には特に父親の育児参加が求められるのだが、会社での残業が常識となり、実質上父親不在の家庭が珍しくなくなってしまった。また離婚の増加により、文字通り父親が居ない家庭も多い。さらに基本的なところでは、戦前・戦後の価値観の大転換により父性は継承されなくなり、途切れたまま放置されている。このような[いびつ]な状態が長年続いたのである。

 こうした父性欠落の問題点がいよいよ近年になって表面に出、一見優美でありながら極めて危険な社会の相が姿を表している。このことは以前、<断ち切るという機能>として西光義敞先生とも意見交換をさせていただいたことがあるが、独立心や反抗心のぶつかり所が無くなったため、依存度の高い、それでいて内面に暴力性を多分に秘めた人々が増えてきた結果といえよう。

 男女平等に名を借りた「人間の記号化」

イメージ  かつての日本のように、政治が一部の特権階級に限られていた時代であれば、また素朴で単純な社会であれば、庶民は母性に偏る文化でも何とか社会は維持できた。宗教も、根本の教学は別として、法話の場では「許されている私」「慈悲に包まれている私」と、主として母性的な慈悲を説くことを良しとし、断ち切ってゆく厳しさが伴う父性は一部の要人だけに施されてきた傾向がある。
 しかし現在のように個人や組織が複雑に絡みあう社会では、国民ひとり一人の父性の欠落は大惨事につながる。巨大で有機的な文明のシステムは、個人に莫大な責任を負わせる構造になっているからだ。しかしこれだけの責任を担う教育は施されていないと言えよう。

 これは「座における孤独な腹の据わり」の問題。共感を基とする母性だけではどうしても解決できない課題が国内外に山積しているのに、現在では要職にある人たちでさえ危うい状態である。

 これは教育の問題が大きい。基本的に父性の教育≠ェ放棄されているのだ。性差に関して言えば、人間としての共通性が基本となっているのは良いが、同時に差も歴然とあることが無視されがちだ。どちらが勝れているか?≠ニ問うのではない、身体だけでなく精神にも差が歴然とある≠ニいう事実は無視してはならないのだ。この基本的な差異を無視して形や制度ばかりを平等にするため、互いの持ち味を殺し、かえって差別が発生し、補完も難しくなる。これでは男女平等に名を借りた「人間の記号化」であろう。記号化された人間は単なる労働力と化す傾向があり、家庭や組織を血の通った状態で維持する力も削がれてしまう。特に父性が育たないまま父親になった男が家庭を崩壊させてしまう例は枚挙に暇が無い。

 勿論、女にも父性はある。しかしこれは女性的な父性であり、深いが情的な父性だ。男性的な父性とは微妙に異なる。多大な付託も本懐ではなかろう。特殊な例で全体を語ってはならぬ。男女は、権利は平等にすべきだが、実際の運営は差異にも眼を向けなければ、互いに生き難い社会になってしまうだろう。論理が先走れば人間は記号化し、持ち味を失ってしまうのだ。

 武士道以外の父性を

 こうした事態を察してか、ようやく父性欠落の問題が国民的関心事になりつつある。昨年の流行語大賞にも輝いた「国家の品格」(藤原正彦 著)も、そうした延長線上にある書と言えよう。しかしここで説かれる父性は総体として「武士道」である。強きものが弱きものを倒す卑怯、多数で個人をいじめるような卑怯、そうした卑怯を憎む精神が根本にある、という。確かにこれも大切だろう。
 だが武士道だけで父性が成立するとは思えない。もっと家庭的・創造的な歴史に根ざした父性を模索してゆくべきだ。例えば浄土の観音・勢至菩薩の徳を拝見させていただくことでもそれは大いなる前進だ。真の母、真の父の徳が、歴史的に家庭にも社会にも見出していければ、見出された徳は、形を変えてでも、自ずと輝きを増す。

 また、相田みつお氏は「その人」と題する詩を書いてみえるが、これなども父性の徳を示していると言えよう。

その人の前にでると
絶対にうそが言えない
そういう人を持つといい

その人の顔を見ていると
絶対にごまかしが言えない
そういう人を持つといい

その人の眼を見ていると
心にもないお世辞や
世間的なお愛想は言えなくなる
そういう人を持つといい

その人の眼には
どんな巧妙なカラクリも通じない
その人の眼に通じるものは
ただほんとうのことだけ
そういう人を持つがいい

その人といるだけで
身も心も洗われる
そういう人を持つがいい

人間にはあまりにも
うそやごまかしが多いから
一生に一人は
ごまかしのきかぬ人を持つがいい

一生に一人でいい
そういう人を持つといい

『その人』(相田みつお)

 一生に一人の「その人」。それは、かつては先輩であり、先生であり、親方だったのではないか。こういう人との出会いは一生の宝となる。もちろん私にもこうした「その人」になりたい≠ニの願いがある。これが父性のはたらきであろう。成就は難しく、とても適うべくもない私ではあるが、かくありたい≠ニ願い続けることはできる。このように願い続けるところにこそ、成就しないままの成就があるのだ。
 さらには直接、父親が「その人」の場合があるかも知れない。しかし実際の父親は、父性と同時に母性も必要となる。包み込む優しさが根に無いと、家庭では父性は有効に働かないのだ。

 だが今では、多くの父親は子どもから無視され、先生もごまかしが通ると思われている。甘い父親、友だちのような先生、だけでは済まぬものがこの社会にはあるはずだ。

 父性――これは、全てを温かく包み込む母性と矛盾しつつ補完しあうもの。そして、目と目を合わせて、ごまかしのきかぬ真剣な言葉を介してのみ伝わる徳である。

[Shinsui]

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