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【平成モニター】

平成13年4月1日

バーミヤン大仏破壊について

― 仏教徒としての悲しみと行動 ―

これは内政問題ではない

 先月、バーミヤン大仏破壊に象徴される仏教文化の大々的な破壊が、アフガニスタンを実質上支配しているイスラム原理主義勢力「タリバーン」によって引き起こされた。
 タリバーンがこのような過激な行動に出た理由は様々語られているが、アラブ過激派との関係強化が取りざたされている。特にアメリカ米大使館爆破事件の黒幕とされるオサマ・ビン・ラディンの支援を受けているため、身柄の引渡しの要求を拒否し、更に国連の制裁が強化されたため、その報復だという。

 貴重な遺跡が次々壊され、しかも「破壊に手間取った」という理由で多くの牛を殺し「許しをこうため神へ捧げられた」という。身勝手な思想と行動に仏教徒である私は憤懣やるかたないが、この憤懣を憎悪に変えることは、私自身が仏教を破壊することになるので慎もうと思う。そしてこの事件について冷静に考えてみることにした。

 イスラム教に対する誤解

 まず、今回のタリバーンの暴挙に対し、仏教徒はもとより、各国、各宗教、また国連はじめ各国際機関はもちろん、数多くのイスラム教勢力からも非難が出ていることは記憶に留めておかねばならないだろう。日本ではイスラム教の情報は戦争や破壊がらみのニュースばかりで、「彼らは結局戦争が好きなのではないか」という誤解がはびこっている。
 確かに「聖戦」を認め、仏教ほどの徹底した平和を説くものではないかも知れないが、それでも今回の事態をイスラム教徒が喜んでいるわけではない。クルァーン(コーラン)の解釈は自由度が高いが、それでもタリバーンのような過激な行動を肯定するグループは極めて稀である。

 例えばエジプトでは穏健イスラムの立場から政府系紙アルアハラムのコラムで「タリバーンはイスラム教、イスラム教徒のイメージをゆがめた。真のイスラムが求めているのは表現、思想、報道の自由や人権尊重など文明世界に合致する文化的な創造だ」と仏像破壊を強く批判している。
 また、イスラム教の公式宗教指導者ムフティーのワセル師、パキスタンのハイダー内相などは、彼らに破壊命令の見直しを説得していた。

 しかしそうした説得を「純粋に国内、宗教問題であり、見直しは不可能」として全て拒否し、タリバーンは最高指導者オマルによる破壊の布告を実行してしまった。ムタワキル外相は「布告はひとり(オマル)の決定ではない。アフガンのすべての宗教学者の同意でファトワ(イスラム教令)を出しており、政府は布告を実行する責務を負う」と責任転嫁をしているが、これはとても受け入れられるものではない。
 というのもオマルはかつて、これら石仏を「敬意をもって」保存する約束をしているのだ。それに今回彼は、マーダル(母)と呼ばれ女性像とみなされていた小さい(といっても38メートルある)大仏の破壊だけを命じていたが、側近強硬派から大きい(55メートル)パーダル(父)も破壊すべきだという意見が上がり、二体とも破壊することを決定したという。

 だいたい強硬派の意見に引きずられて命令を変更するのは、指導者として最低の行為である。かつて日本でも強硬派を抑えきれない政府が結果として戦争を拡大・混乱に陥れてしまった過去がある。
 今回ムタワキル外相は「最高法であるイスラム法(シャリア)の下で、仏像を保存することは許されない」と述べているし、大仏の顔面は何世紀にもわたるイスラム教支配者によってすでに削り取られていたが、当地では宗教を超えて住民たちに親しまれてきた仏像であった。付近には750余りの石窟群もある。このように人々と共に風雨に耐えて保たれてきた世界の至宝も、長い創造と親和の年月の果て、実に短期間に破壊が完了してしまった。

 如来の心を心として

 消滅した仏像や絵画を数える事は、仏教徒はじめ世界の心ある人々にとってみれば、悲しみを数えることになるだろう。しかし悲しみを誤解や憎悪に変えることは許されない。それは破壊された仏像をさらに踏みにじるものであり、像を刻ませ、礼拝せしめる如来の心に反することだからだ。
 当地では度重なる戦争によって人心の荒廃も深刻なのであろう。人権侵害も甚だしいと聞く。本当の悲しみはこちらの方にある。そして如来の心を学ぶ私たちは、この悲しみを、誤解ではなく理解に変えねばならない。憎悪ではなく友愛に変えねばならない。そうでなければ、タリバーンたちが言うように、仏像礼拝が単なる「偶像崇拝」に堕してしまうだろう。

 偶像崇拝は固定化した教条主義から生まれ、憎しみを増し、人や物を単純化して破壊する。
 真実信心は人類の生きた歴史から湧き出て、憎しみを抑え、人や物を複雑な存在としてそのまま生かす。

 宗教を超えて親しく交わることを教えるもの――それこそが宗教であると、いずれアフガンの人々と拝みあうことができる日が来るだろう。そしていつか、かの地で仏像が復刻されることを願ってやまない。

[Shinsui]

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