平成アーカイブス  <旧コラムや本・映画の感想など>

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【本・映画等の紹介、評論】

「救い」の正体(別冊宝島461)

ポスト・オウムの新・新宗教&カルト全書


 人類の生み出した最も悲惨な負の遺産といえば、政府国家が絡んだ「核兵器」、企業や人類全体が絡む「環境破壊」等が挙げられるが、組織の横暴を最大に用いる「カルト」もそれらに負けず劣らぬ巨悪である。カルトの恐ろしさは、人間の善意を逆手に取るところにあり、人格が支配され家庭を根本から破壊する結果をもたらす。「核兵器」が生命の破壊、「環境破壊」が物質の汚染なら、「カルト」は精神の汚染の最たるものであろう。
 これまで専門書としてはいくつか出ていたが、この『「救い」の正体』は、難解な用語は極力避けられていて、一般の人にも読みやすい。学生等へのカルト対策としてはうってつけの本である。

 カルトの実体

 カルトを「熱狂的な宗教(組織)信者集団」程度に思っていては甘い。家庭は確実に崩壊し、「しつけ」と称する幼児虐待が横行、社会的にも敵対した相手には執拗な攻撃を繰り返す。また、個人の意見は踏みにじられ、ひたすら組織の拡大に邁進させられる。

 洗脳されたら、その人にまともな人生はありません。人生がそこで終わってしまうのです。

[P.75]

母は怒り始めたらものすごくて、本当に怖かったですよ。
 思いっきり殴られると、子どもですから大声で泣く。ところが、泣くと反省していないって、またやられる。それで、泣くときはいつも唇を噛んで堪え忍んだものです。

(カルトに入っていた母からの仕打ち)[P.136〜137]

カルト宗教にマインドコントロールされると、性格はもちろん、顔つきまで変わってきます。表情がなくなって、能面のようになってゆくんです

[P.166]

 ひどい場合は多重人格者や自殺者まで排出する。そのため家族は何とか脱会させようと必死になるが、そのための闘いの過程描写は実に凄まじい。また、脱会は必ずしも成功するとは限らない。
 かつてカルトはキリスト教系の組織に多発していたが、最近は宗教以外のカルト、仏教の名を語るカルト、浄土真宗の名を用いたカルトさえ発生している。

 カルトに導くテクニック

 そうした洗脳に「私の家族は大丈夫」と、根拠もなく安心していると危険である。カルトに導くテクニックは巧妙で、生半可な対策ではとても追っつかない。その様々な手段についても本書は触れている。

しつこい勧誘
勧誘はかなり執拗に繰り返される。「そのうちに・・・」とでも行く約束をすれば、罪悪感に訴えられて強引に引き込まれる。10度のうち9度まで断わっても、それは勧誘者の計算のうちに入っている。
二元論
物事には様々な選択肢があり、その取捨選択の豊かさが人生の豊かさにつながる。しかしカルトは白か黒かの二元論に人を追い込め、一方は絶対悪として実質的に道を閉じられている。結局、組織の用意した選択肢は一つであり、それ以外の選択を選ぶためには周りの白い目に耐えなければならない。自分で道を選んでいるようでいて、結局は組織の強制に他ならない。「私は嘘をついて皆さんを裏切り、滅びの道に進みます」と言える人はいないのだ。
外部から孤立
地理的な孤立、精神的な孤立(他組織の悪口、排除)の2方向からメンバーを外部世界から孤立させる。また仲間同士も、励まし合いはするが、人間的な連帯は結ばせないようにし、ひたすら上層部への連絡を密に忠誠を誓わせる。子どもは親の愛情が受けられなくなるため特に悲惨な目にあう。
自己矛盾回避の罠
自分のしていることに矛盾を指摘される事ほど苛立たしいことはない。そのためほとんどの人は常に自己合理化を行っているのだが、強引な二元論で選択した(させられた)道についても、矛盾を回避しようとする。すると、本当は組織の強制であるにもかかわらず、いつのまにか「自分で選択した道を自信を持って勧めている」と勘違いしてしまう。
情報過多を逆手に取る
今後のカルト対策の難しさは、カルトの欺瞞性をメンバーが知っていて、「それでもやっているんだぞ」という、開き直りからくる過激性が備わってきたこと。強烈なトラウマを獲得したい、というネガティブな欲求に応え、「わかってやってるんだから、自分達は高級だ」という思い上がりも生んでいる。蛇足かも知れないが、浄土真宗でも「煩悩具足の凡夫」や「悪人正機」を、懺愧ではなく開き直りに使っている人を時々見かけるが、これほど教えに遠い生き方はない。

 本書に問題点もあり

 カルトの大半は宗教なのだが、カルトの正体を暴くことに熱心なあまり、宗教本来の持つ深い世界まで否定しかねないコメントをよく聞く。実は本書もその傾向が「無きにしもあらず」と言える。
 宗教は比較できない一線もあるが、充分に比較可能な次元もあり、問題として浮かび上がってくるカルトの危険性には、充分に練り上げられた宗教との比較が不可欠だったのではないだろうか。「比較されるのも迷惑」という各宗の思惑はあるだろうが、正統と異端の微妙な違いなどは、宗教体験(信心の体験)からしか語ることができない。
「異端の排除は目的としていない」という姿勢はわかるし、そこまで踏み込むと「やぶ蛇」になるかも知れないが、「なぜ宗教に人は引きつけられるのか」という普遍的なテーマを(何人かは)バックボーンに持った上で、その対極としてカルトを語るべきだったのではないだろうか。
 そうした視点さえあれば、本書の最後に掲載された米本氏の発言――「鎌倉仏教だって、できたときはカルトだったんだからさ。そこを押さえとかないと、この反カルトのカルト性の座談会だって、不毛なだけなんだよ」、などという「不毛な」発言が掲載されることは無かっただろう。

 蛇足第二段となるかも知れないが、最後に私のカルトに対する意見を――
 俗の中の俗である家庭を「聖なる場にしなければ!」という強迫観念が嘘を生み、嘘が家庭を崩壊に導いてしまう。カルトはその観念を凝縮し、崩壊のサイクルを爆発的に早めてゆく。
 俗なる家庭が俗であることを受け入れ、許しあう中でこそ人は育ち、俗に流されっぱなしの自己に変革をもたらす土壌となる。
 そういうはたらきの場こそ浄土ではないだろうか。

[Shinsui]


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