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【本・映画等の紹介、評論】

モンガイカンの美術館

南 伸坊/朝日文庫


◆素人の論

 最近は素人という「強み」を利用した評論が大はやりである。
 専門家が難しい顔をして、訳の分からない専門用語を並べ立てている横から、「要するにそれ、遊びでしょ」とか、「結局は自己満足じゃない」と、当たらずとも遠からずの、そして大抵は悪意を含んだ常識で割り切る。

 読んでる方は面白いが、真剣に物事を追求している門内漢にとってはいい迷惑であろう。また例え明らかな間違えや誤解があっても、「素人だから」という一言で許されてしまう。そうした門外漢の評論本なぞは紙の無駄使いでしかあるまい。勿論、難解用語で意味不明な論をこれ見よがしに押し付ける専門家も別の意味で無駄使いだが・・・

◆ヌードを冷静に観察

 さて、美術に関しては門漢の私であるが、この『モンガイカンの美術館』に関しては色々思い入れがある。
 私がそもそも芸術の道に飛び込んだのは、芸術に対する関心は勿論だが、“勉強の成績があごが外れる程落ち込んだため、他の道が消えた”事も少なからず影響している。そんな私の前に立ちはだかったのが、にっくき『芸術論』である。
 一流の芸術家はこんな難しい事を考えているのか・・・

 勉強が嫌いな私に、哲学書のような現代芸術の基本理念を読みこなす根気は無かった。毎日、目の前にあるモチーフとにらめっこしながら、それが静物の時は静かに「芋は“ぽてっと”描けばいい」と駄洒落を言い、それが女性のヌードの時は、はやる気持ちを抑えて「冷静に感動のおもむくまま描け」と、今にして思えば絶対に不可能な指導を真に受けて、女性の全裸を穴の空くほど食い入るように“冷静に”見つめる毎日を送っていた。

「女の真っ裸を見るのが受験勉強なんて、いい生活してるよなー」と、友達のひやかしを「大変なんだぞ」と、照れも見せずにかわしながら、心の底で“だけどゆくゆくは、あんな難しい芸術論も闘わせねば一流ではないのだろうか”という一抹の不安が、まだウブだった私の心によぎっていた。

 事実、現代の芸術家は作品半分、口半分と見て良い。主張が無ければ世界では相手にもされないから、皆、難しい事を言う。そのうちこっちの方でも頭角を表し、作家となった画家も多い。中には芥川賞まで取った者も複数いる。

 学生時代、先人の芸術家のどこが凄く見えたかというと、この芸術論であり、哲学であった。作品に関しては根拠の無い自信を持っていた私も、こちら側は“何とも理解しがたい世界”なのだ。

◆冗談のような本質のような・・・

 そんな折、美術雑誌の『みずゑ』に連載されていた、「モンガイカンノビジュツカン」という南伸坊の「エッセイともヒョーロンともつかない」文章を読んで、“なーんだ、そうか”と、妙に納得した事を覚えている。「モンガイカン」と言っても、今はイラストレーターであるから、完全な素人とは言えないが、当時は漫画編集者であった訳だから、やはり門外漢であろう。これが妙に分かり易く、ほとんど冗談を言っているようで実は核心をつかんで(・・・というかくすぐって)いる。
 今回のオベンキョーのテーマが「ミニマルアート」だというので、リクツを聞いてみたら、
「感覚に訴える要素をそぎおこした、最小限の表現」
 というようなコトだったワケで、これはまァ、いってみればペチャパイ女の言い訳のようではないか? と思ったからなのだ。
〈中略〉
 もともと魅力がとぼしいんだから。あきられたらキツイですよ。カンバスを同じ色で塗りつぶしたって、「はい、作品です」ったって、仏の顔も三度ですよ! まったく!!
 [芸術は女である]
 当時の私は、ごくさりげないつもりだが、いまの私なら即座にそれを見破るね、「東郷芸術」には凝視できるほどの情報はつまっていないのだ。  
 [東郷はグレートか?]
 この顔写真によって、私のモジリアニ芸術に対する視点は定まってしまった。こんなに色男なんだったら、なんのために芸術なんぞをすることにしたのだ。なにか勘違いをしているのではないか。
 [モジリアニはマストロヤンニだ]
 冗談というのは遊び半分じゃ面白くないのである。ワザワザとか、なにもそこまでとか、あきられちゃうというようなバカバカしさがあって、面白いのである。  
 [姓は堀内、名は正和]
 エッシャーは宇宙から不思議を汲みとってきて、蒸留するのだ。蒸留した不思議はわかりやすくて面白いけれども、溶けてしまえばみな同じ、なのである。なんだか、ワケのわかんない汚水のまま飲んでしまう度胸がないのである。  
 [エッシャーなんて不思議じゃない]
 面白そうな言葉のみをつないでみたが、評論全体を読んでみると、「リッパナゲイジュツロン」になっているのが不思議である。
 ある程度世の中のことを知ると、様々な芸術論には“歴史的な必然”と“個人的な気まぐれ”が渾然となって成立していることが分かる。そしてそれは、まあ「そう大したことはない論」であることが分かってくるのだが、それでもやはり芸術には不思議で怪しげな魅力がある。

◆芸術と宗教はウソ?

 この本の中でもピカソの言葉を引用した評論はやはり面白い。
「これがあんた、ピカソが十四歳の時の絵だ、これでもピカソは絵が下手かね」
「いやー、イマモユーヨーニ、こりゃあうまいですよ。リッパなものだ、ガキのときにこんなにうまく描けたのに、どうしてまた、こんなにヘタになっちまうんだろう。これはあんた、お父っつぁんに手伝ってもらったんじゃないのかい?」
 [芸術はウソである]

 ピカソが天才的な写実の才能を持ちながら、あの有名なヘタクソな絵を乱発したのには訳がある・・・まあ、このあたりは他の美術評論に任せておくが、この場を借りて、というか利用して、是非、宗教者にも聞いてもらいたいピカソの言葉がある。これはこの章にも引用されているのだが、
 芸術とは我々を真理に到達させる嘘である。あまりにも多くの画家が逆に、彼らの仕事の結果、つまり彼らの絵がそれ自体で〈真理〉であると信じている。〈真理〉は絵の外で実現させるのであって、決して絵の中ではない。それは絵が決定する現実との関係の中で実現されるのだ
 例えば有名な「泣く女」シリーズ。当然、実際にはあのような原色の女性は存在しない。しかし、ピカソの絵を見ることによって、ゲルニカという一都市に起こった悲劇が普遍的な悲劇であることを我々に気付かせてくれる。それは写真という「それ自体が真実のもの」より、はるかに強い真実性を持っている。

 ところで、少し乱暴かもしれないが、私は常々この「芸術」を「宗教」と読み替えている。
 つまり「真理は、宗教教義と人間の関係の中でのみ実現される」ということだ。 特に大乗仏教の経典は、この思考方法を使わないと「全くの作り話」となってしまう。
 そして、余りにも多くの宗教者が、人間との関係を無視し、宗教書のみを絶対視したため、教条主義に陥っている現実に心が痛む。

 ・・・本の紹介のつもりが、ずいぶん私論をはさんでしまったが(毎回ですな)、結局、私はこの本を随分気に入っているということだけは最後に書き添えておこう。

[Shinsui]


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