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【本・映画等の紹介、評論】

眼 美しく怒れ

岡本太郎 著(岡本敏子編)/チクマ秀版社

 見事なほど清々しき人生観

 岡本太郎の作品に触れ、文を読むと、かつて、こんなに爽やかでパワフルな人が日本に居たのか ≠ニ驚く。

 しかし一般人にとって記憶に残っている岡本太郎は、「芸術は爆発だ!」と叫び、訳の解らない論を吐く奇人≠ニいうイメージだろう。また作品を多少は知っている人たちでも、原初的な感覚を現代に蘇らせた奇才≠ュらいに思われている節がある。

 もちろん、それらの批評が間違っているわけではない。岡本太郎はいつも生き生きとして個性的で原初的だ。

 不思議なことだ、と私は思う。いわゆる近代人と称する人間。自我にめざめ個性を尊ぶ。生活水準が高く、好きほうだいに生活が楽しめる連中の方が、どうも個性を失い、あまり特徴のある顔をしていないのだ。サラリーマンの群れなど見ると、まことに味気ない。絶望的に同じような顔をしている。表情不在の顔、顔、顔である。「顔」ではないのだ。
<中略>
 「個性美」の大量生産。個性的であろうとして、個性を失っているのは、まことに現代的矛盾である。

[顔を失った近代人]


 空を見上げる。晴れ晴れと澄んでいる。
 ――空は青いんだなあ――空って、青かったんだな、と思う。
 そして腹の底からむくむくと笑いがこみあげてくるのだ。私はよくそんな馬鹿馬鹿しく子供っぽい気分に心を躍らせたりする。
 空は青いにきまっている。しかし、このひどく単純な感動。……私は思う。大むかしから人間は空を見上げては、その青さを総身にやきつけた。そんな人間の自然への喜び。それを今日、たとえ何歳になっても、感じつづけるべきだ。
<中略>
その色は、かつて見た「青」ではないのだ。生まれてきて、いまはじめて発見する輝き。ひろさ。はじめてぶつかる、一回限りの。すると、ああ空が青かった、ということに驚く。

[青空]

 しかし、「グラスの底に顔があったっていいじゃないか」等とコマーシャルにまで出まくる岡本の姿は多くの誤解を生み、同時代の芸術家・文化人たちからは徹底的に嫌われることになる。目立ちたがり屋のパフォーマンス≠ェ当時の総評だった。そしてそれは渋好み≠フ日本人の美観とも激しく対立する。

 まったく、原色を使うだけで、どのくらいきらわれ、憎まれたかわからない。私は現代日本の色彩の貧しさ、にぶさに窒息する。だから象徴的に、原色をぶつけるのだ。芸術の本質は挑戦にある。
 日本人の渋好み、くすんだ色が高尚だと思いこんでいるのは、江戸中期以降の、封建政治に押込められたムードだ。それ以前、たとえば平安貴族のかさねの色目の華やかさ、戦国武将の甲冑の絢爛、桃山から元禄までの小袖の大胆さ。……日本の美感覚は無邪気に、野放図に、明色だった。

[色オンチ]

 確かに歴史を遡れば、岡本太郎の美観の方が正統的だったのかも知れない。しかし渋好みの業が染み着いた現在の環境に居ながら、原初の感覚を取り戻すのは本当は容易なことではない。彼の徹底的な内部からの爆発に敬意を表したい。
 また岡本太郎は、芸術の爆発は奨励しているが、戦争は徹底的に拒否している。同時に、日本人全体に漂う戦争に対する無邪気さ≠ノも警鐘を鳴らす。

 私は昭和十七年に、現地入隊のため東京駅に集結して汽車に乗せられた。車内はにぎやかな興奮の渦だった。お餞別の菓子や果物を食べ、大声で合唱したり、まさに子供の遠足か、農村の若い衆たちがお祭にでもくり出すようなハシャギ方なのだ。戦争の残酷さを身近に知らされていない国民。
 三十二歳の現役兵、パリ帰りの私だけが片隅でじっと眼をつぶり、耐えていた。まるで断頭台に運ばれて行く絶望感だった。
 アメリカだって、自分の国の中での戦争体験がない。ベトナムに派遣される兵士たちも、やはり探検隊にでも参加するくらいの気分でいるのではないか。
 たしかに今度の戦争では、日本中のめぼしい都市はほとんど爆撃され、親兄弟が焼殺された。食料もなく、想像もできないほど悲惨な戦争体験だった。多くの大人たちは、もう二度と戦争はいやだ、と思っているだろう。
 しかし、まだ何か戦争を徹底的に拒否するという迫力には欠けているようだ。また戦争がはじまったら、どうしようもなくまきこまれるんじゃないか、そんな不吉な運命観がただよっている。
 何故か。戦いの本当のいやらしさが身についていないからだろうと思う。

[残酷な現実]

<また戦争がはじまったら、どうしようもなくまきこまれるんじゃないか>という予感には頭が下がる。今、日本はまさにその分岐点に立っていて、どうしようもなくまきこまれようとしている一歩手前だ。あらためて「戦いの本当のいやらしさ」を学びたい。

 さらに、逞しい人生観について、以下のようなアドバイスもしてくれている。

 変な言い方をするが、人間があまりにも人間的であるために、記憶によるさまざまな判断がまつわってくる。そして悔いたり、悲しんだり、またウヌボレたり、くじける。
 逞[たくま]しい人間は過去にわずらわされない。不幸な人間ほど、大きな、あるいは些細な悔いの群れがいつまでも残り、くっついて来て、それがだんだん拡大されてくる。ついには被虐的に、それにしがみつき、現在しなければならないことを放っぽらかして、ひたすら悔やんでいる。
 しかしいま言ったように、忘れることが人間のふくらみだ。自分自身をのりこえるというのは、実は己れ自身を忘れることだ。
 また言いかえれば、自分を忘れることによって、自分自身になりきる。

[忘れることの美徳]

 確かに多くの人がこの「記憶」には煩わされている。要らぬ記憶はさっさと消し、煩いを超えてゆきたい。そして清々しく人生を燃やし尽くしていきたい。そう皆々願っているのだが、これは難題である。忘れることの美徳≠持った岡本太郎。元気の源を見る思いがする。
 ただし、先の<戦いの本当のいやらしさが身についていない>という言葉とは矛盾するように思うが、戦争に対する拒否感は、頭ではなく身に染み込ませるもの≠ニ受け止めておこう。

[Shinsui]


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