こころの手足/中村久子 著【浄土の風だより】本・映画等の紹介、評論
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【本・映画等の紹介、評論】

こころの手足

中村久子 著/春秋社

 本当の宿業

あんた、まァ可哀想に手も足も無いんじゃなァー、前世の業じゃでなァー、この世は業≠ヘたしじゃで、しんぼうしんさいなァー

 私たちは特に悪意を自覚しないまま、他人を強烈に傷つけることがある。特に宗教者と呼ばれる人たちが繰り言のように言う「前世の業じゃでなァー」との解釈には、古今東西どれだけの人たちが傷つき立ち上がる力をなくしてきたことか。そして現代日本でも、こうした悪癖を撒き散らす前世を云々する番組≠ェ視聴率を得、「この世は業≠ヘたし」とする迷信が再び蔓延り始めている。

 かつてレーニンが「宗教は民衆の阿片である」と攻撃した宗教はこうした迷信的な癒し宗教であった。迷信的癒しは、単に「あきらめねばとの一方的な観念」であり、「“死物”にひとしい」いんちき宗教である。それは「すべてのことを善処して行く」という真実の宗教ではない。天に従い権力者にひれ伏す奴隷的宗教である。ゆえに迷信的癒しは、時として強烈に人を傷つけ、倒れた人を二度と起き上がれなくさせる麻薬ともなる。

『こころの手足』の著者である中村久子さんにとっても、生涯を通して一番苦痛を受けたのは「この世は業≠ヘたし」という迷信だったようだ。手足がない、ということだけでも察するに余りある苦難だったろう。しかしそれ以上に迷惑を被ったのは周囲の眼、人々が彼女をどう受け入れたかという人間環境・社会環境が大問題だった。ここに迷信的な解釈が入り込んだため、彼女の生活はさながら地獄的な様相を呈する

 父親は、自分の業が娘に報いたと嘆き、全ての資産をとある宗教につぎ込む。周囲の人たちも、哀れみはあっても代々の業や前世の業を噂し、親類からは「不具の子」を恥とする目にさらされ、どこか日陰者として生活せざるを得ない状況に陥っていた。中には親身になって支えてくれた人々もいたが、少数で、ほとんどは迷信的な解釈の中での哀れみに過ぎなかった。

 こうした悲劇的な状況で暮らしていた久子さんであったが、皮肉にも彼女に生きる術を与えたのは、この悲劇的状況を売り物にした「見世物小屋」だった。一番自分自身を苦しめ、他人から興味本位で覗かれた最も隠したいこの手足なき身が、日々の糧を得る道具になったのだ。現在ならば福祉の保護を受けられる状況だろうが、当時はそうした施策はなかった。

 心身に傷を負ったまま、さらにそれをさらけ出してまで生きねばならん久子さん。筆舌に尽くしがたい苦難の日々の中、自身の半生をつづった文章が話題となった。さらに多くの出遇いを経て、彼女は人々の前で自分の苦労話を披露することになる。
 ついに彼女は、嫌で仕方が無かった見世物小屋生活から開放されたのだ。しかも積年の苦労を人々は涙で迎えてくれる。周囲はようやく久子という一人間を、人間として受け入れることができたのである。

 人生に絶望なし

 このまま身障者の語り部として生活するはずだった久子さん。しかしやがてこの立場を打ち崩していく何かが彼女の心に沸き起こってくる。
切れぎれのこころいだきて満堂の善男善女になに語らめや

 それは、自分の人生ははたして満場の人々に語るような立派なものなのだろうか≠ニの疑問である。そんな時、彼女は仏教との深い出遇いを経験し、同時に自身の本当の業を発見するに至る。後に彼女はこう語っている――

あきらめよと言われて、手足の無い自分をすなおに、ハイ、そうですか、とあきらめ切れるものか切れないものか、まずおえらい方々から手足を切って体験を味わって頂いたら――と私は思います。その悲しみと苦しみはどれほどのものか――。六十年を手足無くして過ごした私ですが、決してあきらめ切っているのではございません。

 手足の無いまま歩んだ自身の人生を、前世の業とあきらめるのではない。むしろ「あきらめ切れね自分」にこそ宿業の深さが見出されてきた。業は身体や過去や周囲にあるのではない。自分の中に自分自身を裏切る業があったのだ。受け入れざるを得ない今の自分自身なのに、六十年経っても受け入れられない心。この道理に合わぬ心こそ解決すべき業であった。さらにこの解決すべき業が何歳になっても解決がつかないという悲しみ。自分自身が引き受けられない業を彼女は仏法によって見出したのである。

 刀は相手を斬ることはできても刀自身を斬ることはできない、眼は他のものを見ることはできるが眼自身を見ることはできない、という。しかし仏法に出遇えば、宿業を悲しむ業が動きだす。宿業を見る眼が見える。久子さんは再び見世物小屋に戻り、宿業とともに生きる人生を選ぶことになる。

手足なき身にしあれども生かさるるいまのいのちはたふとかりけり

 尊きは、解決のつかない宿業を背負いつつ、その悲しみを誤魔化さず、他に押し付けず、じっと見つめ続ける眼そのものにあった。この心の眼に見えたものこそ、「こころの手足」であったのだろう。

[Shinsui]


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