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【本・映画等の紹介、評論】

木のいのち木のこころ(天)

西岡常一 著/草思社

法隆寺は誰が建てたのでしょう?

大工さんです

◆時間がかかる伝承

 この本は宮大工、それも最も古くから伝わっているであろう法隆寺大工の棟梁の語りを聞き書きしたもので、知識、学問では得られない体験が、素人にも分かりやすく味わい深く語られます。
 およそ1300年前、飛鳥の頃からの口伝を交えて語られる宮大工の仕事。彼らは昔ながらの『徒弟制度』で育てられます。

「一緒に飯を食って一緒に生活し、見本を示すだけです」
「弟子も初めは何にも分かりません。そのほうがよろしい。何にも知らんということを自分でわからなならん」
「何度も繰り返し、手に記憶させていくんです」
「経験は学べないんですな」

 自然の素材を生かして物を作ってきた日本の文化。その典型である職人の道に、近道はありません。著者は現代を大量生産で早く早くの「せちがらい」世の中だと、大工の業界・また人の育つ環境両面について嘆いています。

◆職人と学者

 戦後間もない頃は、大変な苦労をされたようですが、職人としていい時代を生かしてもらったと、法隆寺だけでなく薬師寺や他の古寺の解体・改修・再建に携わったことを語っています。

 再建の折、建築学者は学説にこだわり様式を判断したのに対し、西岡さんは寺に残っている古い材木から「こういう形の部品は、こういう造りの、こういう部品でしか有り得ない」と、構造を特定する決め手を打ったこともあるそうです。

「学者が先におったんやないんです。職人が先におったんです」

口伝と職人の腕の中にしかないものは、どんな一流学者も見抜くことはできませんでした。

◆本当の思いやり

 この本では、殆ど職人とその仕事に関することしか語られていないのに、いつにまにか読者は教育、文化、環境、生き方といった問題に目が向けられていきます。

「仏の慈悲心なり、母がわが子を思う心なり」

 これは法隆寺大工の口伝で、棟梁が心得るべき工人(職人)達への思いやりの言葉です。どんな癖のある人間も生かされる、それが仏のはたらきであり、母の心である。棟梁はそれを目標にしています。

 詳しくは読んで味わって下さい。読みやすくて、内容の濃いとてもいい本です。

[H.Tokiwai]


――心に残る言葉――

 この本に掲載されている 西岡常一さんの印象に残る言葉をいくつか紹介します。


 

合板にして木の癖がどうのこうのといわないようにしてしまったんですわ。木の持つ性質、個性を消してしまったんです。
 ところが、癖というのはなにも悪いもんやない。使い方なんです。癖のあるものを使うのはやっかいまもんですけど、うまく使ったらそのほうがいいということもありますのや。人間と同じですわ。癖の強いやつほど命も強いという感じですな。癖のない素直な木は弱い。力も弱いし、耐用年数も短いですな。

「木を長く生かす」より


 

 昔はおじいさんが家を建てたらそのとき木を植えましたな。この家は二百年は持つやろ、いま木を植えておいたら二百年後に家を建てるときに、ちょうどいいやろといいましてな。二百年、三百年という時間の感覚がありましたのや。今の人にそんな時間の感覚がありますかいな。もう目先のことばかり、少しでも早く、でっしゃろ。それでいて「森を大事に、自然を大切に」ですものな。

「木を長く生かす」より


 

ほんのこのあいだまで学者たちは古い建築物の再建に鉄を使って長持ちさせろといってきたんでっせ。
 みんな新しいことが正しいことだと信じていますが、古いことでもいいものはいいんです。明治以来ですな、経験を信じず、学問を偏重するようになったのは。それは今も変わりませんわ。
 しかし千三百年前に法隆寺を建てた飛鳥の工人の技術に私らは追いつけないんでっせ。飛鳥の人たちはよく考え、木を生かして使っていますわ。

「飛鳥の工人に学ぶ」より


 

 鎌倉の様式には日本的な感性がありますな。日本人的というたほうがいいかもしれません。飛鳥や白鳳も美しいでっせ。大陸からの文化を吸収して、日本の風土に合わせるという偉大な知恵が盛り込まれていますが、日本独自の形といいましたら、鎌倉あたりの様式で完成してくるように思いますな。それをすぎて室町に至りますと、装飾に走り、嫌味が出てきますな。華美に走りすぎて堕落してくるんですな。
 鎌倉時代の建築には力強さがあり、木割りにしても室町より太いですし、なにより無駄な装飾がないということですな、簡潔ですわ。
<中略>
 槍鉋が姿を消すのも室町時代です。便利なものが出現すると消えていくものがあるんですな。道具が消えるというのは、ただそれがのうなってしまうだけではないんです。その道具によって培われた文化というものも消えていきますのや。
<中略>
 江戸になりましたら、もっとひどいでっせ。日光東照宮といいましたら、みなさん、修学旅行やらで見に行き、すばらしい、すばらしいといいますが、建物として考えましたら、あまりいいもんやないですな。華美で、派手で、これでもか、これでもかというほど飾り立てている。

「造りたいもの」より


 

 これらの建物の各部材には、どこにも規格にはまったものはありませんのや。千個もある斗にしても、並んだ柱にしても同じものは一本もありませんのや。よく見ましたら、それぞれが不揃いなのがわかりまっせ。どれもみんな職人が精魂を込めて造ったものです。それがあの自然のなかに美しく建ってまっしゃろ。不揃いながら調和が取れてますのや。すべてを規格品で、みんな同じものが並んでもこの美しさはできませんで。不揃いやからいいんです。
 人間も同じです。自然には一つとして同じものがないんですから、それを調和させていくのがわれわれの知恵です。

「徒弟制と学校」より


 

 姿勢が悪くても刃は研げません。力の入れ具合が悪くてもできません。癖があったら研げません。自分の癖はわからないものです。その癖が刃物を研ぐときに出るんですな。急いでも、力を入れても研げませんのや。
 そのたびに「何でや」と思いますやろ。それで考えるんですな。そして先輩のすることをよく見ますな。何とかして研ごうと思いますからな。これが頭ごなしに「こうやるんだ」と教わってもできません。手取り足取り丁寧に事細かに教わってもできませんな。

「教えるということ」より


 

鉋が上手やったら鉋の腕を伸ばしてやる。鋸の扱いがうまかったらそれを伸ばしてやる。しかし、こうした得意なものは力を入れて導かんでも自然に伸びるもんですわ。大工は職業ですから、鉋だけ、鋸だけでは一人前とはいえませんわな。ですから不得手のところを見つけて力を入れて、そこを習得させるんですな。
 芽というたら伸びてくるものだけやなしに、伸びられずにいるものも言いますのや。その芽も伸ばしてやらななりません。
 もう一度、母親に子供の芽を見つけ出して育てる役を担ってもらいたいものですな。

「芽を伸ばす」より


 

 育てるというのは人間だけではありませんわな。檜にしろ杉にしろ、人間に育てねばならないという使命感がなければ育ちませんので。『日本書紀』のところで話しましたけど、自分たちの主食を節約して国々の山々に種を播き続けてはったんですな。それで万葉のころには青垣瑞穂の国と呼ばれるようになったんです。万葉のころには主食はすでに米などの五穀に変わっていたんですやろな。国民は米作りに精を出し、山造りがだんだんおろそかになっていったんですな。このころ木を育てるのに一生懸命やったら、樹齢千年以上の木が今日の山に育っておったでしょうな。
 しかし、木を育てるというのは大変なことです。自分のことだけを考えていたらできません。国の未来や国土の命を守るという使命感があって、初めて木は育てられるんです。人間を育てるのも同じことでっせ。次の世代を担う人を育てるという使命感がなければあきません。それも口先だけやなしに心底から信じなくてはあきませんわ。

「育てるということ」より


 

 丸暗記したほうが早く、世話はないんですが、なぜと考える人を育てるほうが大工としてはいいんです。丸暗記してもろうても後がありませんわな。面倒でも各時代の木割りがなぜ違っているのかを考え、極めるには大変な時間と労力がいりますが、後で自分流の木割りができますのや。そうしてはじめて本当の宮大工といわれるようになるんですな。丸暗記するだけでは新しいものに向かっていけません。ですから物覚えがいいということだけでは、その人をうまく育てたことにはなりません。丸暗記には根がありませんのや。根がちゃんとしなくては木は育ちませんな。根さえしっかりしていたら、そこが岩山だろうが、風の強いところだろうが、やっていけますわ。何でも木にたとえてしまいますが、人でも木でも育てるということは似ているでしょうな。

「育てるということ」より


 

 今の教育はみんな平等やといいますが、人は一人一人違いまっせ。それを一緒くたにして最短距離を走らせようと思っても、そうはいきませんわ。一人ずつ性格も才能も違いますのや。その不揃いな者をうまく使い、それぞれの異なった性格を見出すのは、そう簡単に無駄なしにはいきませんで。
 徒弟制度は封建的で古くさく、無駄が多いといわれますが、無駄にもいずれいいものが出てきますのや。あんまり目先だけのことだけを考えていたんではあきませんわ。結論だけ教えても、手が動き、足が動き、それがどんな仕事の一環なのか知らな、仕事はできませんし、何かが起こっても対応ができませんやろ。
 無駄と思うて捨てたり、見過ごしてきたことに、ずいぶん大事なものが含まれているんと違いますかな。

「無駄の持つ意味」より


 

 薬師寺の西塔が完成したとき、「よくできましたな」、「みごとですな」といわれましたが、いっこうにうれしゅうはないんです。形は整っておるかもしれへんが、「この塔が千年持つやろか」、「地震でも来て崩れはせんやろか」、「もしそないなことになったら自分の腹切らなならん」と思っていますのや。これでは褒められてもうれしゅうないですな。自分がした仕事ですから、どこかに欠点がないか、あそこは大丈夫か、そう思いまっせ。これは弟子たちでも同じです。下手に褒めたらすぐ天狗になりますがな。「これでいいのか」という気持ちをつねに持つことが大事です。
 それと人間というやつは、褒められると、こんどは褒められたくて仕事をするようになります。人の目を気にして「こんなもんでどうや」とか、「いっちょう俺の腕を見せたろ」と思って造るんですな。ところがそういうふうにして造られた建物にはろくなものがないんです。
 室町時代に入って道具が進歩してくると、そんな建物がぎょうさん出てきますのや。華美に走りますな。そのため構造が犠牲になります。本来のするべきことを忘れてしまうんですな。歴史がちゃんと教えてくれまっせ。
 職人は思い上がったら終わりです。ですから弟子を育てるときに褒めんのでしょうな。

「褒めること」より



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