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【映画・書籍等の紹介、評論】

アヴァロン

Avalon

映像世界に新たな可能性を提示

[2001年公開/監督:押井 守/出演:マウゴジャータ・フォレムニャック 他/脚本:伊藤和典/音楽:川井憲次/撮影監督:グジェゴシ・ケンジェルスキ]

美しく重厚なセピア色の世界

 映画『マトリックス』(1999年)以来、映像は新たな時代に入ったと言われているが、多くの追随作品が製作され、そのいくつかは「マトリックスを超えた」と評価できる映像も既に出現している。しかし「超えた」と言っても追随に変わりはない。もし本当に「超える」ことができるためには、そこにオリジナルな、しかも新たな手法を提示しなくてはならない。今の時点でそれが可能な監督は、その先駆となってきた押井守しかないだろう。

「随分待たせたな」という印象はあるが、いよいよ『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(1995年)に続く久々の長編映画『アヴァロン』である。前作が全世界に与えた衝撃は計り知れなく、『マトリックス』などは言わばそのサイバー世界の実写版。おそらく彼自らが手がけたかったような企画だろうが、「押井氏だけに惜しい」などという親父ギャグも虚しく、振り上げた拳は新たな世界を切り開く作品に注ぎ込んでゆくしかない。

◆ ストーリー

「近未来」というと、きらびやかな風景を想像しがちなのだが、ここでは湿気を帯びた重苦しい世界として描かれる。ロケをポーランドで行なったこともあるが、「旧共産圏国家」がそのまま荒廃したような風景である。ついでに言うが、こうした映画はあまり前列の席で見ない方が良い。いくら映像が美しくても、よほどの体力・気力がないとその重苦しさに押しつぶされてしまうからである。

 ストーリーは、そうした荒れ果てた現実と、その埋め合わせとして人びとを熱狂させる非合法仮想戦闘ゲーム「Avalon」の架空世界で繰り広げられてゆく。
 主人公のアッシュは、ゲーム上ではトップレベルの<フィールドクラスA>に登場する「孤高の女戦士」であるが、現実に戻ると酒とたばこを手放せない単調な毎日が待っている。彼女はかつて無敵を誇る“ウィザード”のメンバーだったが、パーティーは突如解散。その責任を負っている(と感じている)彼女は、以来ソロプレイを通している。
 そんなある日、彼女は元メンバーのスタンナと再会する。そしてかつてのパーティー・リーダーのマーフィーが、ゲーム上でロストしたため、現実でも廃人同様になっていることを聞かされる。そしてそこにはリセット不能の幻のフィールド<Special A>の存在が関わっていることを知る。様々な過程を経て彼女は謎を含んだ者たちとパーティーを組み戦闘に突入。謎のフィールドに潜入するのだが、何とその世界は<Class Real>。扉を開いた彼女がそこで目にしたものは・・・

◆ 重い映像に軽い内容を乗せて

 実写を素材としてアニメを作るという手法は、今後様々な可能性を切り開いてゆくことになるだろう。この映画はその先導役として記念碑的な作品となるに違いない。
 仕上がりとしては特に路面電車の扱いが秀逸で、登場するどのシーンもまるで名画を見ているようである。またアッシュのひたむきな表情は、映画を見終わってからしばらく瞼に焼き付いて離れない。まるで「ここが私の現実だ」と、彼女が私の生活に入り込んだようである。

 しかし、そうした位置づけや映像・音楽の重厚さに比べると、提示された内容はいたって軽いと言わざるを得ない。もちろん「そのギャップが面白い」と言えなくもないが、現実と虚構の境界線を曖昧にするのなら、なおさら現実の部分にもっとゲーム以外のファクターを持たせておいて欲しかった。ここに登場する現実で意識的なのは「食」の場面のみ。他の現実は、彼女が孤独であることを示す“no mail”――メールも来ない、だけである。

 多くの若者が熱狂する“Avalon”上で大活躍している彼女にメールが来ないなんて有り得るのだろうか? ゲームに関わる女性で、しかも皆が一目置く存在である。メールが山ほど来て、その中から一つくらいは小さな物語が見え隠れしてしかるべきではないだろうか。そうした対人関係が省かれている現実はリアリティーに欠け、どうしても虚構として見えてしまう。これでは現実と虚構の境界線が最初から存在しないかのようで、映画の持つ不思議さが半減してしまっている。

◆ 出会いの歴史

「映像とアニメの合体」というと突拍子もない事のようだが、実は現代に存在するほとんどの文化は、古典的な文化と新たな文化の出会いから起こっている。

 例えばヨーロッパ絵画の世界でも、フェルメールとそれ以前とは<フィールド>が違う。彼以前の絵画は、肉眼で見たものを基本に成り立っているが、フェルメールの絵には明らかに写真の影響が出ている。つまりカメラがとらえた光が重要な要素を担っているのだ。
 これが印象派までくると光が主役になり、その延長線上にフォービズムが登場し、その暴走を画面の再構成でキュビズムが抑える。そしてその流れが世界大戦と出会いダダイズムが生まれ、精神分析と出会いシュールリアリズムが登場する。もちろんそんな単純な話ばかりではないが、とにかく異文化の合体(時には分裂)によって新たな文化が形成されてゆくのである。そしてそのエポックを飾る名画というものが必ず存在する。
 この“Avalon”は、まさにそうしたエポックとなる名画である。

 約100年前に映画が登場し、続いてアニメが生まれ、それがずっと平走してきて、時にその融合も試みられたが、完全に合体するところまでは来ていなかった。押井氏は映画版「うる星やつら」以来、日本のアニメを「ジャパニメーション」として国際的な評価に高めた一人であるが、今回は素材を実写で撮りこみ、それをアニメ化するという手法で完全合体を成し遂げた。しかも映像的には非常に高度で密度が高く、かつデジタル臭さも消え、古典的な重厚さまで備えている。

 先進的な作品というのはいつもそうだが、この映画の評価は時代とともに確立されていくだろう。私が上記した不満も、時が経てば霧消してしまうにちがいない。何しろ、現代人の生活の大半はコンピューターがらみである。パソコンはもちろん、テレビも、そこに流れる映像も、携帯も、車も、飛行機も、金融も、宗教や政治も遅ればせながら絡んできた。しかし何といってもその先進はコンピューターゲームである。かつて私も『ウィザドリー』で、思い入れの深い戦士を灰からの復活に失敗してロストしたり、『ドラクエ』のデータが全部消えて、しばらく呆然自失の日々を過ごした経験がある。
 今のところ、あのアッシュ嬢がゲームだけに現を抜かしているキャラクターとは認め難いが、虚構と現実が混濁する時代は既に始まっていると言えよう。今後はその混濁からいかに「リセット不能の現実」を嗅ぎ分け、「私のフィールド」を恣意的に判別するか、その能力を高める必要があると思う。
 このままでは仮想現実が現実を追い越してしまうだろう。何しろ一部の人の間では、それは既に仮想ではないのだ。

◆ ロードショー初日舞台挨拶から

 映画公開の初日、「1月20日(土)15時40分から 名古屋[グランド2]で、監督・押井守による舞台挨拶がある」と聞いたので、さっそく出かけて行った。最初の舞台挨拶が東京[渋谷東急3]で12時00分からだから、大変なハードスケジュールである。
以下印象に残った言葉を列挙してみると――

(注:以上、メモもテープも取ってないので、言葉は文字の通りではありません)

[Shinsui]


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