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【Oの食卓に花束を】

心と身体のダイエット地獄

ダメの強制こそダメなのでは

 ダイエットにつきものなのは「ダメ」という言葉である。
「炭水化物は太るから食べ過ぎちゃダメ」、「動物性脂肪はダメ」、「寝る前に食べちゃダメ」、「カロリーの多い食物はダメ」、「バランス考えて食べなきゃダメ」、「運動しなきゃダメ」、「寝不足もダメ」。これだけ「ダメ」が連発されればストレスがたまるに決っているのだが、その上「ストレスためちゃダメ」ときたら、どうすりゃいいの?

 あれダメこれダメ何がダメ?

 健康・美容のため、を金科玉条にダイエットをすると大抵ストレスがたまる。私が以前試みたダイエットは、運動も平行してやったから身体的には健康だったが、気持がやせ細ってしまった。そうすると、お経を読む時も声が上ずり、寺務に支障をきたすようになったため断念。結局ダイエットはストレスの山を残しただけだった。 イメージ
 私は僧侶という事情でダイエットを断念できたが、どんどん下がる体重を励みに頑張り過ぎてしまう人も多いだろう。すると挙句に拒食症になったり、逆に切れて過食症になったりする。

 人は自分の心にも身体にも嘘をつくことはできない。食べたいのに無理に食べないようにすれば、心と身体がばらばらになって、食欲ばかりが巨大化し、それを押さえ込むため、より巨大な禁欲を強いることになる。そういう緊張を長く続けると、禁欲の力が絶対的になったり、膨れ上がった食欲が堰を切って表出したり、という拒食・過食の地獄に陥ってしまうのだ。

 そうした「ダイエット地獄」の実情を思うと、実は「正しくダイエットしなきゃダメ」という論も有害で、本当は「ダイエットなんて必要ない」と、まず心を解放させておいて、食べたいと思った食事を楽しく摂ればいいのではないか。つまり「食べたい」という身体の欲望をちゃんと満たしてあげることが大切で、「○○しちゃダメ」という強制こそが「ダメ」なのだと思う。
 身体の発する食欲が満たされていれば、それ以上の食欲は湧いてこないのに、無理に抑えようとするから反動で本来の食欲以上に食べることに執着し、欲望が暴走してしまうのだ。

 こんな状態で食べたんじゃ、食べられる動植物の方も迷惑だろう。彼らは人間の都合(本人の都合ではなく)により調理されたのだから、暴走する欲望で食べるのではなく、感謝この上ない気持ちで食べたいと思う。
 食前に「いただきます」と手を合わせる意味もここにあるのではないだろうか。

 心の栄養

 身体の無理なダイエットが有害であることは認知されてきたが、実は心のダイエット・禁欲も「過ぎたるは やらんほうがまし」で、実に有害無益である。心に栄養がなくなれば先細りした人生になってしまうからだ。
 仏教でも、釈尊が苦行を途中で止められたのはこうした理由からと伝えられているし、数百年後、部派仏教の禁欲生活を批判し、人生を創造的に構築することを目指して大乗仏教が登場する。
 また日本では、親鸞聖人が僧侶でありながら正式に結婚をし、家庭的な欲望を「尊敬する伴侶を得て、共に家庭を作り上げてゆく」という広範で創造性豊かな活動に転じられてゆかれたのだった。

 ところで青年期に人が一番悩むのが恋愛問題であろう。そして当然そこには「浮気はダメ」というルールが必要となってくる。しかし「互いがこのルールに従っている限り穏やかな関係が出来上がってゆく」と、単純に考える人はいないだろう。その上「ダメ」はストレスを生み、ダイエットと同様で欲望を無理に抑えるから、あまり長く自分に嘘をついていると、反動で恋愛の拒食・過食状態が発生してしまう。
 よく「恋愛は障害が多いほど燃える」と言われるが、実はこうした恋愛のダイエット状態が引き起こした幻で、本当に相手を好きなのか、単に欲望が暴走しているだけなのか、見定めることが困難となってくる。

 また、結婚しても浮気癖が直らない人もいるが、本当に浮気相手自身を好きになったのか「ダメ」と言われることをあえてしているだけなのか。もし後者なら、それは誰も愛せない人が、ぶよぶよに膨れ上がった欲望に振り回されているだけであろう。そんな、互いを欲情のはけ口にしている姿は、冷静に見ると悲しいものがある。

 そして以前から問題になっている援助交際・少女買春というのも、こうした暴走の延長線上に起こる出来事である。これは互いの欲望の混濁から起こる悲劇なのだが、これを悲劇と自覚してやってる人たちは皆無であろう。以前この問題を取材したある女性の評論家が「お金と引き換えに自分を○○ツボにしてるんだよ」と、女子高生たちに向って強烈なメッセージを放っていたが、その発言に人格無視の面があるにしても、自覚を促す言葉としては十分説得力がある。またそれ以上に問題なのは大人たちの暴走した欲望で、これを止めない限り教育も何もあったものではない。

 そんな関係と比較するのは失礼だが、先に示した親鸞聖人の結婚生活は、互いを「菩薩」と拝み合った関係であったことが残された手紙から読み取れる。人間であるから、長く連れ添えば欠点も見えていたに違いない。それでも拝み合える仲になれたのは、相手の人格を認め、尊重し、共々が仏法に育てられる生活を営んでみえたからだろう。

 仏教では、「愛」の関心が仏法や敬恭供養・功徳・信心・往生・願などに向いたとき、つまり菩提心に随順する内容で語られる場合は梵語で「プレーマ」という語が用いられ、「愛」が欲望や執着・貪り・煩悩などに向いたとき、つまり菩提心の障害となる内容で語られる場合は「トゥリシュナー」という語を用いる。

 人は常に欲望を制限して社会生活を営んでいる。だから時として本当の欲と暴走した欲の区別がつかなくなってしまうことがある。心も身体も、もう一度本来の欲をきちんと自覚し、それを尊重し許しあうことが大切だろう。それは、人を本当に理解し愛する「プレーマ」という気持ちを中心に、家庭や社会を成り立たせてゆくことで適うものだと思う。

[Shinsui]


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