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【Oの食卓に花束を】

白飯の役割と浄土

ばっかり食べによって失われる文化

 食生活が仏教的体験に

 日本の伝統的な食文化をたずねてみると、つくづく白飯を中心とした献立であることが分る。ご飯を食べるためにおかずや汁ものがあり、おかずも、ご飯があることが前提となって味付けされている。汁ものを飲みご飯を食べ、梅干をかじってはすかさずご飯を食べ、おかずに箸をつけておもむろにご飯を食べる、ということが繰り返されるのだ。おそらく昭和の時代までは、こうした食事風景以外は考えられなかったのではないか。パン食が日常化しても、これはご飯の代用品に過ぎなかったのかも知れない。

 ところが現代の食生活は大きく変わった。野菜中心から肉中心へという変化も大きいが、もっと重要なのは、おかずとご飯の関係が変わったことだ。ご飯を挟まず、おかずだけを一品ごとに食べる、いわゆる「ばっかり食べ」が増えているという。一皿全部食べてから他の皿に移り、ご飯も一品として食べるのだ。幼稚園児ならまだしも、二十歳過ぎの大人までがこうした食べ方をする。何とバランスの悪い食べ方か、と思っていたが、実は日本以外の国では大方この食べ方なのだそうだ。

 確かに、例えばイタリア料理など、パスタはパスタ、ピザはピザで一品ずつ食べる。肉料理の時もその一品だけを食べる。以前、あるヨーロッパ人にうな丼を食べさせたら、うなぎだけを先に食べて、ご飯を後に食べたので「ご飯はあまり美味しくない」と言ったというエピソードを思い出した。欧米人が梅干を食べられないのも同じ感覚だろう。ご飯にしても、具と一緒に炊いたり、混ぜて食べる国が多く、白飯を特別扱いするのは日本独特、もしくは非常に稀な文化なのかも知れない。

 ところで、白飯を特別扱いすることは、「図らずも」仏教の理解に多大な貢献をしてきたのだが、このことは余り省みられていない。庶民は、難しい教理は分らなくても、日々の食生活の中で、仏教を体験的に学んでいたのだ。 イメージ
 どういうことかと言うと、多種多様に存在するおかずは、いわば「有」であり、白飯は「無」にあたる。白飯は自らを主張しないいわば「無我」であり、おかずの「我」を受け入れてその存在を明かす。おかずは自らの存在を主張する「実」であるが、白飯の「空」のはたらきによってその存在が安らかになる。おかずだけでは完結しない世界、白飯だけでも完結しない世界。有と無、我と無我、実と空が、互いの存在を照らしつつ、互いが主役となる。これは絵画にも影響し、筆をつけた部分と空白が互いに活かしあう構図を生んだ。

 このような味わい深い世界を生んだのも、無味のようでありながら無限の味わいを宿す白飯の存在が中心にあったことが大きい。浄土真宗でいえば、白飯にあたるものが浄土で、おかずにあたるのが宿業の世界。あらゆる機を受け入れる浄土があればこそ、宿業を見つめる勇気がわく。浄土と宿業の世界は、互いの存在を合わせ鏡のように照らし、入出無碍・往還二回向の門を開き、歴史的に清浄・荘厳のはたらきを発揮してきた。

 個に閉じた世界が蔓延

 こうした文化が次第に崩れてきている、ということはどういうことを意味するのだろう。

 たとえば、日本の伝統では、素材の味を引き出すことを最重要課題とするのだが、それが美味と評価されるためには、白飯を食べて各自の好みにしてもらうことが前提だからだ。
 これは人間観にもおよび、一人ひとりは癖が多く、存在の奥底に宿業の臭みが漂うが、浄土のはたらきによって臭みが個性として輝き、さらに創造性に発展してゆく。それゆえ、自らの長所も欠点も全てさらけ出せる場があるのだ。「煩悩即菩提」、浄土を胸に生きれば、そうした深い世界を味わえる。信心が無碍の生活であるというのも、ここに証しがある。

 しかし、白飯が中心になければ、それぞれの一品を独立して完成させなければならない。素材の味が強すぎれば、ハーモニーを保つために、素材の個性を抑えて調理せねばならない。
 これが人間観におよべば、各自が単独で評価されるために、本来の癖をなくし欠点をなくし、周囲との調和を保たねばならなくなる。そのため、表に現われた自分という存在だけで善人であることを証明しなければならなくなる。これでは欠点をさらけ出す場はもてないだろう。「業が深い私」ということも、浄土を抱いてなければ認めることが難しくなる。煩悩は煩悩としてしか評価されないのだ。往々にして欧米人が高慢とも思える態度を保つもの、また自ら道徳的であることを示そうと力むのも、無や空や浄土の世界を経験していないせいなのかも知れない。

 一日三度の食事である。ここで、ものを見る見方が自ずと養われるということを考えると、食事の作法は、単なる作法に留まらず、世界観の基礎になるのではないか。

 以上、単なるこじつけかも知れないが、自己責任を押し付けあい、互いの欠点をあげつらう昨今の日本の風潮は、白飯の役割が省みられなくなったことも遠因のような気がする。

[Tetsubuta]


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